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6/23 75years later

「6/23」の意味するもの

6/23という日付は、沖縄戦の終結日で「慰霊の日」と記念日制定されています。一般的に国の終戦記念日は8/15ですが、沖縄の人にとっては、やはり今日、6/23の方が大きな意味を持っています。

75年前の父

私の父は、75年前の今ごろ、何をしていたのだろう。
父は、旅行地として有名な慶良間諸島の渡嘉敷島に生まれました。1937年3月29日の生まれなので、太平洋戦争時は8歳です。
沖縄戦は慶良間諸島からスタートしました。米軍は1945年3月26日座間味島を上陸と共に占領し、3月27日には渡嘉敷島に上陸と共に占領。
その最中、父の一家は母親が産気付いたため、指示された地区への避難を断念。豪雨の中、山中に穴を掘り、父の弟が生まれます。
翌3月28日、避難された地区では集団自決が行われました。手榴弾や小銃、鎌や鍬や剃刀、または縄で家族が家族の命を絶っています。当時の渡嘉敷島の人口は詳細が不明ですが、1000人程度と想定されていますが、集団自決で383人の住民が亡くなりました。
父の一家は、前述したお産により避難場所への集合に遅れ、奇跡的に集団自決を免れました(当然私もその奇跡なしには存在していません)。その翌日に8歳の誕生日を迎えた父は、何を思ったのでしょう。
ただ、この話も私は父から直接聞いたわけではなく、親戚の集まりで父の兄弟同士の昔話を盗み聞いたものでしかありません。
そして6/23をどこで、どのように迎えたのか。父は10年前に亡くなり、知る由はありません。捕虜だったのではないかと思っています。
父は「與那覇」という名字だったそうですが、新天地沖縄本島へ移住する際に、「新里」と改名します。「新しい里」に、どんな意味が込められていたのでしょうか。

75年前の私の生地、嘉数

私は、宜野湾市嘉数という場所に生まれました。
私の実家の真上は、普天間基地に帰還する軍用機が低空飛行を始める地点でした。軍用機が来ると家の掃除機の音すら聞こえないほどで、軍用機によっては超音波か何かで耳が痛くなります。私は耳が弱いように感じています。
そんな嘉数には、「嘉数高台公園(背景写真)」という公園があります。近所の子どもたちにとっては大きな滑り台や途方もない階段の上にある展望台など憩いの場ですが、その公園は沖縄戦屈指の「嘉数の戦い」の舞台でした。
父が奇跡的に命を免れてから2週間足らず、4月9日に米軍は沖縄本島へ上陸します。
嘉数は天然の要衝だったようで、川を挟んで日本軍が高台側に立ち米軍を迎撃します。4月9日中に始まった嘉数戦は、2週間に渡り両軍合わせ10万と言われる犠牲者を出しました。米軍からは「忌々しい丘」と呼ばれたそうです。

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私の実家は、この地図で言うと「独立歩兵第13大隊第2中隊」と赤で囲われた書かれた辺りにあります。嘉数北高地が今の嘉数高台の辺りで、10万の犠牲が出たのは、後の私の遊び場や通学路、友人の家がある場所ばかりです。
嘉数が「激戦の地だった」ということは子どもの頃聞いた記憶がありますが、詳細を知ったのはつい10日ほど前です。
今や本当にのどかな、学校の帰りが嫌になるほどの坂道が多い住宅街になっています。生れて12年、実家が引っ越すまでさらに15年ほど帰省先だった嘉数は本当に美しい場所です

その他、私が沖縄に住んだ12年で目にしたもの

私は12年間しか沖縄に住んでいませんでしたが、
・母方の祖母が普天間基地で働いていたので、たまに基地で遊んだ
・入学した小学校の校長は、米軍の攻撃により沈没した対馬丸という学童疎開船の生存者だった(本のモデルだった)
・1995年の米兵による少女暴行事件に端を発した普天間返還運動時、役所の人間が低空飛行の真下にある我が家の窓を何故か無償で二重にし、エアコンを新しいものに換えてくれた
・とても大好きだった絵画教室の先生は反戦アーティストで、2004年の沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落事故を目の前で見たショックで絶筆
など、身の回りに向き合わざるを得ないものがありました。

75年後の6/23、今思うこと~構造的差別は溢れている~

今日は、75年後の6/23です。
昨日は、嘉手納基地で火災があり、塩素ガスが放出されたと米軍が発表したようです。
4月には、発がん性の高さが指摘されている泡消火剤14万3830リットルが普天間基地外に流出しました。

ここまで文字を尽くして私が言いたいのは、「沖縄が被害者だ、基地を返せ!」ということではありません。それでは本質的に、私の目指す社会には変わらないからです。

世界、日本でも問題になっているのは、このような「構造的な差別」なのだということです。沖縄人である私が直面したものは、あくまで構造的なものであり、その一例だということです。「日本には差別がない」という発言もありますが、Twitterなどでは反証がいくつも出ていますね。
黒人、在日、部落といった出自(難民差別すら堂々と表現されています)、男女や職業、学歴など、日本には構造的・歴史的に積み重ねられてきた差別が厳然と存在しています。
ですから、沖縄人としての私とは別に、男性である私、東大に行った私には立派に特権性があります。
それら各構造の中での自身の特権性に自覚的になる、あるいは自身だけが絶対的被害者ではないと知るということが「社会に触れる」ということであり、それが他者に対しての眼差しを改めるきっかけになるのではないでしょうか。
75年続いた構造の中の6/23に考えたのは、そういうことでした。

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