秋田の映画史 第一節 明治初期の娯楽興行
第一節 明治初期の娯楽興行
1 芝居興行の進展
㈠ 明治維新後の興行
慶応から明治にかけてのこと。
東北諸藩を巻き込んだ戊辰戦争において、久保田藩は城下に程近い椿台(現、秋田市雄和)にまで攻め込まれ、人々を狼狽させた。
ところが同じ頃、新政府軍と対峙していた仙台藩が、戦局の劣勢により官軍に降伏した。このことで、久保田藩の対敵であった庄内軍も、国元の守りを固めるために秋田から撤退をはじめた。
予想外の敵軍撤退の局面では、我が藩勝利とも錯覚されるが、この戊辰の戦いの秋田勢はほぼ連戦連敗だったという。(注1)
戦場となった藩内は、各地で略奪の被害を受けた。多くの民家が焼失し、動員された農兵の犠牲も少なくなかった。しかも、多額の戦費を賄うための御用金が農家商家に課せられた。
大方の民衆は、新政府軍の勝利による終戦にともかく安堵したものの、新しい生活への不安もあって、すぐに戦勝気分に浸ることはできなかった。
秋田に本格的な娯楽興行の場が生まれるのは、しばらく後である。
農民の一揆などで藩内が騒然としている間に、明治新政府による維新改革は着々と進められた。
久保田藩は明治四(一八七一)年一月に秋田藩と改称したが、同年七月には廃藩置県によって「秋田県」となった。
翌八月までには藩札禁止、旅行鑑札廃止、散髪廃刀など古い制度が打破され、この後急速に西洋文明が受容されていく。
文明開化のシンボルといわれる新聞も、明治七年二月に「遐邇新聞」が創刊された(後に秋田遐邇新聞、秋田日報、秋田新報、秋田魁新報となる)。地方紙としては全国的にかなり早い時期の新聞発刊であった。
秋田では、旧藩末期から明治初期にかけて、花立町の粗末な建物で芝居が行われる。明治五(一八七二)年、人々もようやく落着きを取り戻したのか、檜舞台のある新しい芝居小屋<第一号>が町の南西部、中川口に誕生した。これは「川口の小屋」と呼ばれた。舞台開きは同年八月で、酒田から来た中村雀一座の興行であったという。安藤和風著「秋田五十年史」には、「スズメと称する俳優が中々評判であった」と記されている。
明治六(一八七三)年には、寺町西法寺隣に「長平小屋」(名称は不確実)が建てられた。翌七(一八七四)年には田中町に「長四郎の小屋」が建って、数年後に「末広座」と改称した。同七、八年頃には、寺町龍泉寺脇に安藤某の建てた「安藤の小屋」(名称は不詳)が出来たが、大雪で三年ばかりで倒壊し、其の跡に「三津座」が新築されている。
当時の様子について、「秋田県史県治部第一冊」(大正六年十月刊)には「一般士民の遊楽歓会については、多く従来の制禁をゆるめ、すこぶる自由を許したり」とある。
次第に小屋(劇場)が増え、芝居の興行が盛んになっていく。
㈡ 夜芝居の騒動
この時期、旧藩士には版籍奉還後に士族の身分が与えられ、維新後の産業開発、教育文化の推進に協力して、県勢発展に指導的役割を果たすことが期待されていた。しかし、士族の中には怠惰、無気力な者も多かった。
明治九(一八七六)年二月の東京日日新聞には、「士族は秋田県下に八千余人ありて、十分の九分九厘は懶惰にして職業なく、空しくお情けの仕送りを消費するのみ」と酷評されている(注2)。
また同年六月の郵便報知新聞(東京)は、秋田町の当時の状況を「奉還士族の目的を失う者、娘君を妓にうる者あり。劇場あり、看客多し。市中不景気、生活を失う者多し」などと報じている(注3)。
その中、家禄奉還による一時賜金などの支給に満足したのだろうか、夜芝居の見物に狂奔する士族の姿が目立つようになってきた。
当時の遐邇新聞には、一部士族の堕落を嘆き戒める投書が掲載されている。
「一朝家禄金ノ渡ル有レバ、忽チノ気取リテ官様ニ擬シ、頭ニ高帽ヲ戴キ、身ニヲ纏ヒ、足ニヲチ、ニ夜芝居ニ奔走ス。(殊ニ細君又後家君ノ如キハ、今夜ハ何々狂言、其ハ何々ノ役ナリ面白カラフト、向ヤ隣家ト言合セ、正午ヨリ田中町ニ、寺町ニ趣キ)リニ金銭ヲチトシテ顧ミズ、遂ニハ産ヲ傾ケ、身ヲヘ、五尺ノヲ容ルヽノ地ナキニ至ルモノ十中五六皆是ナリ。豈ニ慨嘆ノ至リナラズ哉」。
県は明治十(一八七七)年二月五日、各区戸長に対して、夜芝居は当分許可しないことを通達した。しかし、その一年後には新たな通達が発され、夜芝居が昼間働く者達のレクリエーションの場として復活する。
それは明治十一(一八七八)年二月十四日の通達である。
「一切禁止候テハ、昼間刻苦業体ヲ励ムモノ等、兼テ希望スル鬱散場ヲ失ヒ、彼是差閊候趣モ相聞候ニ付、自今、其地方ノ実況ニ依リ、許可候儀モ可有之候云々」
以後、劇場が整えられ、歌舞伎芝居を主とする演劇興行が活発になる。
つづく
2 軽業と手品
明治の初期から芝居興行が盛況に推移する中で、芝居以外の様々な見世物も興行された。特に明治十九(一八八六)年の秋田大火後には、劇場や寄席が増えるに従い、その種類も多くなった。
秋田では、軽業、手品、浪花節、講談、浄瑠璃、義太夫、常磐津、写し絵、人形劇、水芸、七面相、八人芸、祭文、うかれ節等が明治二十年頃までに興行されている。
明治初期、数多い見世物の中で多くの県民の人気を集めたのは軽業と手品であった。その事例として、特に観客が大挙して押し掛けた北秋田郡出身鳥潟小三吉の軽業興行と、東京の手品師帰天斎正一、歌川トシマロの幻灯興行について記してみたい。
㈠鳥潟小三吉の軽業
鳥潟小三吉は天保十三(一八四二)年四月花岡村に生まれ、十六、七歳頃上京、天性の器用さから軽業や手品を習得、二十四,五歳の頃に渡欧、サーカスの一団を組織し欧州各国を巡業、絶賛の人気を博し、ドイツにおいて大家の令嬢と国際結婚、帰郷後は豪奢な生活を続け、明治四十二(一九〇九)年十月花岡で六十七年の生涯を閉じたという人物である(注5)。
小三吉の軽業は明治十(一八七七)年六月二十八日から大館近傍の根下戸野において開催された。興行予定日の三日も前から阿仁部はもちろん、鹿角、津軽方面からも見物客が集まって大館に宿泊し、開催の前夜から先を争い木戸に詰め掛け、午前八時頃までには四千二百枚の木戸札が売り切れた。朝からの小雨が昼には大雨になったが、観客は一人も帰らず皆が濡れ鼠になって見物したという。
料金は大人八銭,小人五銭であったが木戸札は忽ち完売、二日目は五千人、三日目は六千人という大入りであった。この軽業はこの後、秋田町、能代港町でも開催され、能代の興行では青森県の深浦、鯵ヶ沢辺りからも観客が船で港に入り旅籠屋は大繁盛であったという。
㈡帰天斎正一の幻灯
手品は手妻或は幻戯(メクラマシ)とも呼ばれ江戸時代の初めから見世物として興行されていた。古くから奇術という言葉があり、大道具を使った舞台奇術を魔術とも言った。日本の手品は手先のわざであり、秋田日報、秋田日日新聞(明治十五年七月創刊)など明治初期の新聞は手品を演ずる人を手術師と記している。練磨を積まなければ演ずることの出来ない本来の日本手品が、器械小道具に頼るようになって行き詰まったところへ、明治九(一八七六)年には英国人による西洋手品が、さらに同十二(一八七九)年には清国人による南京手品が日本で興行され双方ともに喝采を浴びた。
この外国手品と日本手品との特長を混和することを試みたのが帰天斎正一である。彼は三代目林家正蔵の門人で林家正楽という落語家であったが、明治十(一八七七)年頃落語から奇術に転じ西洋手品を看板に寄席に出ていた。東京で名声を博し「手品の親玉」とニックネームが付けられる程であった。
その帰天斎正一が、明治十六(一八八三)年六月に土崎港町及び秋田寺町三津座で興行を行った。三津座では六月十三日が初日で午後五時から十一時まで六時間の興行であり、六月十七日付の秋田日報は「初日より非常の大当たりなるよし。市中の評判噴々たれば一昨夜弊社員も見物に出懸けしが、技芸の高妙なる実に人の眼を奪ふに足り、満場は殆んど立錐の地を剰さゞるほど大入にて、拍手喝采沸く如く市中の評判に背かざりき」と報じた。
帰天斎正一の奇術には幻灯が使われていた。しかし、まだ一般には幻灯という言葉がなじみ薄く、新聞もこの時は写し絵或は幻灯写し絵などと書き記した。写し絵は江戸享和期から日本独特の寄席芸として伝わってきた映像芸能であり、奇術に用いられることは無かったものである。秋田三津座の興行においてどのような映像が映写されたかは不明であるが、二年後の明治十八(一八八五)年六月、英国奇術の歌川トシマロが秋田の寄席万来亭において興行した際、秋田日日新聞はこのように初めて幻灯に接した驚きを記している(注6)
トシマロは、秋田において万来亭(上亀之丁)に続き勇明亭(曼多羅小路)、新城町寄席において同様に興行した。
帰天斎正一の興行は、秋田で最初に幻灯が教会で公開されたといわれる明治十六年と同時期であるから、もしかしたら、秋田ではこの三津座の興行の観客が最初に幻灯映像を経験した人々かもしれないが、幻灯については第一章に詳述したい。
第二節 劇場・寄席
1 明治初期の芝居小屋と寄席
㈠芝居小屋の開業
維新後における秋田町の芝居小屋開設については前節でも触れたところであるが、明治期における興行場の変遷については大正三(一九一四)年九月六日付秋田魁新報の特集記事「演芸の秋田―芝居と寄席の今昔―」(資料一)が詳しく纏まった資料である。
以下、主としてこの資料を参考に明治期の劇場及び寄席の移り変わりを整理してみたい。(明治の興行場については、今野賢三著「秋田市の今昔・新風土記」(昭和三十二年八月刊)にも、〝明治の劇場は芝居小屋といった〟の見出しで若干の記述がみられる)
明治五年に建てられた「川口の小屋」を最初に、六年には「長平小屋」、七年には「長四郎の小屋」と続き、七、八年頃には「安藤の小屋」が建築された。長四郎の小屋は後に「末広座」と改められているが、十三(一八八〇)年二月の秋田遐邇新聞に「田中町末広座で芝居」の記事があるから改称はこの頃と思われる。
また、前に述べた安藤の小屋跡地の「三津座」については、十五(一八八二)年二月の秋田日報「寺町三津座で夜芝居興行中」との記事が初出であるが、その前の十一(一八七八)年二月の遐邇新聞に「寺町芝居座で夜芝居興行」の記事が見られるので、三津座と命名するまでは「芝居座」と呼ばれたのであろうか。三津座については「秋田五十年史」(前出)にも「座主は三津留と称する土崎の侠客で、若しも観客がなければ、己れが土間の中央に大胡坐を掻き見物するという男であった」と秋田魁新報の特集記事と同じような記述がある。
㈡寄席の開業・秋田大火
寄席について、新聞報道に取り上げられた順に記せば、先ず明治十二(一八七九)年秋に上亀ノ丁「万来亭」で浪花節が興行されている。次いで十六(一八八三)年十二月頃から、寺町當福寺に隣接する曼陀羅(マンダラ)小路の「勇明亭」で浪花節等の演芸が行われた。この寄席は火消し勇組の会所を転用したものであった。十八(一八八五)年暮には亀ノ丁西土手町の「亀鶴亭」で講談が行なわれ、十九年三月には豊島町の「豊島亭」で八人芸が興行された。
このほか、明治十八年六月に「新城町の寄席で幻灯写絵英国手品、浄瑠璃を興行」と報じられているが、建築の時期も寄席の名称も不明である。この寄席については、井上隆明著「秋田の今と昔」の新城町の項に「明治中期まで寄席も建ち、〝仙台坊の絵解き〟などは、呼びものになった」と記されている。
明治十九(一八八六)年四月三十日午後十一時十分頃、秋田町川端(明治末頃から川反と記すようになる)四丁目の民家から出火、風速二一・八㍍の東南の風にあおられ忽ち大町、茶町に移り外町を総なめにし、八橋、寺内方面にまで飛火した。市街五十三町、八橋、寺内村を含む民家三千五百五十四戸を全焼し、死者十七人、負傷者は百八十六人にも及び、翌朝の七時頃漸く鎮火した。「秋田県警察史」(昭和四十四年発行)には「その惨状は言語に絶するものであった」と記され、史上稀に見る大火で「俵屋火事」として今に伝わる。この大火により、末広座、三津座の両劇場をはじめ、芝居小屋や寄席などの全部が灰燼に帰してしまったのである。
2 秋田大火後の寄席と劇場
㈠寄席の再建
焦土と化した町で復興に汗する人々が娯楽を望んだのか火災三ヵ月後の明治十九年八月一日には、上亀ノ丁の寄席「万来亭」が再築落成して浪花節の興行を始めた。その後コレラ流行のため秋まで一切の興行を禁止されたが、十一月になって馬喰町の「神田亭」が講談の興行を行い、同二十一(一八八八)年一月には末広座跡地へ寄席「栄太楼座」が新築され、後に「富貴座」、「富貴見楼」と改称し明治末まで営業を続けた。
このほか、明治二十年代には茶町扇之丁「達磨座」(後、千歳座と改称)、柳町「千歳座」(後、達磨座に移る)、楢山十軒町「十街亭」、楢山表町「常盤座」、本町五丁目「蔦座」、上亀ノ丁「蔦金座」、寺町「勇座」、同三十年代には亀ノ丁西土手町「いろは座」、楢山登町「広愛館」、八日町「明治座」等の寄席が開場した。そのうち万来亭と栄太楼座は十年を超えて営業を続けたが、その他の寄席は僅か五,六年の存続に過ぎなかったようである。特に三十年代後半から四十年代にかけては、映画の進出が大きく影響して、寄席興行は急速に衰退し、多くが廃業に追い込まれるようになった。
こうした中で明治四十二(一九〇九)年一月、川反五丁目の料亭鳳臨閣を栄太楼、開運堂等の菓子商が引き受け、寄席に改修し「娯楽亭」と命名して、杮落としに川反芸妓連の義太夫公演で開場した。同四十四(一九一一)年一月に所有者が変わり名称を「娯楽館」と改め、大正六(一九一七)年七月頃まで営業を続けたが、映画の影響から経営難となって遂に廃業してしまった。跡地は買収され同年暮れに映画常設館の高等演芸館が誕生している。娯楽館は大正期の前半における秋田市唯一の寄席であり、最後の寄席となった。なお、秋田における寄席興行では、明治中期から大正期にかけて、浄瑠璃、浪花節、講談等が比較的多く興行されている。
㈡長栄座の建築
大火の翌月には、早くも「末広、三津の両演劇場とも災いにかかりたるが、今後は人家稠密の箇所を避けて保戸野北鉄砲町へ劇場を建築するとの噂」と立ち上がりの早さを秋田日日新聞が報じている。
末広座は再建することなく廃業したが、「三津座」は寺町から保戸野北鉄砲町(場所は六道の辻)に移り、火災のあった年の十二月九日から仮劇場で芝居の興行を始めた。新劇場は翌二十年十一月に落成し、芝居のほか仕掛花火、軽業、手品などを興行した。二十七(一八九四)年三月の芝居興行から以後の状況は不明であるが、この興行の二、三年後には廃業したものと考えられる。
秋田魁新報特集記事(資料一)によれば、明治二十年頃、柳町に「長栄座」が建っている。この記事には「当時は縄で結うた汚い小屋であった」と記されているが、長栄座では二十二(一八八九)年七月に幻灯会が開かれ、その後八月までに内部の修繕普請が行なわれた。やがて本格的な改築を行い、二十四年寺町に開場した秋田座と芝居の興行を競っている。そして三十年代に入って巡回業者による映画の興行も行なうようになった。明確な資料は無いが、秋田市で最初に映画が公開上映された場所が長栄座であったことはほぼ間違いないと思われる。
ところが、三十八(一九〇五)年五月二十三日午前二時、宿直室から出火し建坪百四十二坪の劇場一棟、家屋七戸を全焼し、宿直の雇い人は焼死するという惨事を惹き起こし同座は幕を閉じたのである。
なお、長栄座においては、明治二十五(一八九二)年四月、秋田市では初めての蓄音機による興行を行い、有料で一般に公開聴取させたことを時代の一齣として記録しておきたい。これは一八七七年エジソンの発明した蝋管に録音したフオノグラフという機械で、ドイツの鉄血宰相といわれたビスマルクの音声や東京柳橋の名妓の嬌声などが録音されており、料金は二銭程度(当時、芝居の木戸は大人五銭乃至十銭)であった(注7)。
㈢秋田座の開業
明治十六年に曼荼羅小路にあった消防勇組の会所が寄席の勇明亭になったことは前述の通りであるが、その寄席が大火で焼失した後の同二十四(一八九一)年四月、寺町釈迦堂光明寺境内に勇座が設けられ、芝居や曲独楽などの興行が行なわれていた。同年十月この勇座を南鉄砲町の白根屋が譲りうけ劇場に改修し、翌十一月に「秋田座」として開場した。
二十五年十月には本多一座により当時話題の壮士芝居の公演を行っている。また、芝居のかたわら操り人形、水芸、宙乗り、曲独楽、写し絵などの興行もあった。三十五(一九〇二)年頃から長栄座と同じく巡回業者による映画興行も開かれるようになった。
秋田座は明治四十二(一九〇九)年六月から隣地へ新劇場の建築に着手、同年九月十二日に落成、舞台開きには千余名の観客を集め、川反芸妓連による狂言などで幕開きした。大正期に入って市内に映画常設館が誕生した後も、巡業の映画と並行して演劇の興行を続け、大正四(一九一五)年二月には川上貞奴一座の公演を行なうなど本来の劇場として努力していたが、時代の趨勢から同十一(一九二二)年二月遂に米国ユニバーサル社特約の洋画常設館となり、四月には同社直営館となった。しかし、その二ヵ月後の大正十一年六月四日午後二時半過ぎ、映写室からの出火で全焼し、その後再建されることはなかった。
3 凱旋座の設立
㈠凱旋座の建築
長栄座焼失から一ヵ月後の明治三十八(一九〇五)年六月、安藤和風ほか市内の有識者が集まり、同座跡地に、日露戦争の戦捷記念として、株式会社組織により劇場「凱旋座」を設立することを発案した。同年八月には、市川護幸、長谷川勝太郎、安藤和風、三好巻次、森沢善吉、関嘉吉の六名による創立委員会を開催、資金は目標二万円、一株二十円の株式とすることを協議、「株式会社凱旋座設立趣意書」を発表すると共に株式募集のための手続きに入った。
明治三十九(一九〇六)年六月に諸手続きを終え、資本金七千円、所在地秋田市柳町五十三番地(現、大町四丁目)、演劇その他の賃貸を目的とする株式会社凱旋座の創立を決定し、一株二十円として株式募集に着手した。発起人には、近間佐吉、刈田新治郎、高橋長左衛門、長崎為吉、相沢重吉、三好巻次、志田忠治、森沢善吉、関嘉吉、新田目小助ら十名が名をつらねた。
長栄座が焼失し市民の娯楽、集会の場所が不足していたほか、大劇場による本格的な演劇の公演に渇望していた市民の声に後押しされ、わずか一月余後の七月末までには全株数の募集が完了した。八月十日には、三百余坪の敷地に間口十一間(二〇㍍)奥行十七間(三〇.九㍍)高さ四十三尺(一三㍍)の規模で、間口七間(一二.七㍍)奥行四間(七.三㍍)の楽屋が付属し、千人以上を収容できる大劇場の建築が着工された。
凱旋座の落成は明治三十九(一九〇六)年十一月十日で、秋田魁新報によれば「建物の外観は洋風鶯色塗りで中央に凱旋座の大額を掲げ、上に錨に桜の模様、左右の塔には月桂樹に星章の装飾あり、他に例なき壮麗な建物」であった。舞台は八間(一四.五㍍)余で、回り舞台は五間半(一〇㍍)の構造であり、楽屋は十六室を有し火災予防のため溝を隔てて建築されていた。
観覧席は傾斜をつけ四人詰の枡割りで上等席には畳を敷き詰めてあり、土間三百人、高土間百八十人、桟敷百二十人、左桟敷百人、ウヅラ百人、二階百人、立見百人の合計千人を定員とし、演説会などの場合にはその倍の人員を収容できる広さであった。その宏大壮麗さは劇場の模範であり東北第一を誇るものと評された。「秋田の今と昔」(前出)には「地方では名古屋に次ぐ第二の大劇場と言われた」とある。
㈡凱旋座の興行
開場式は落成の翌十一日午後から本舞台において挙行され、歌舞伎の尾上幸蔵一座が舞台開きの公演を行なった。開演前から客止めの盛況で入場者数は千二、三百名と言われ、さしもの広い場内も立錐の余地が無い状態であった。観覧料は秋田座との均衡を考慮し一等七十銭、二等五十銭、三等二十五銭、立見一幕五銭で、兵卒は三割引き、四歳から十歳までは半額とした。
また、観覧者に対して、①無用の弁当を持参し場を塞げざること②乱酔酒乱者は一切入場せしめざること③開演中は必ず帽子を脱すること、などの遵守を求め、その心得に反するときは入場を断ることがある、と異例の要望をした。なお、無用の弁当持参を無くすため、中茶屋の販売価格を低廉に抑えたという。
凱旋座は歌舞伎を主とした芝居興行を続けたが、明治四十一(一九〇八)年六月には、新派劇の創始者川上音二郎が設立した川上座主任の山本嘉一が、座員六十余名を率いて来秋、川上派正劇として角館出身田口掬汀が翻訳したサルドゥー原作の祖国(パトリー)をはじめ、シェークスピアのハムレットなどを上演した。山本嘉一は公演初日午後三時から小学校尋常科二千八百名、五時から同高等科二千二百名を招待してお伽芝居(児童劇)を観覧させ、夜も七時から一般観客千五百名に翻案劇祖国を無料で観覧させた。この時の凱旋座における興行は、六月二十五日から七月十八日までの二十四日間に及んでいる。
さらに、同四十二(一九〇九)年九月には川上貞奴一座の公演があり、川上音二郎も興行主として来秋したほか、湯沢出身の俳優後藤良介や先の山本嘉一なども参加した。五日間の興行は連日大入り札止めの盛況であった。
また、同年十月には、西洋奇術の第一人者で、明治後期から昭和初期にかけて奇術の全盛時代をつくり出した松旭斎天一及び天勝の公演があり、豪華な装置や鮮やかな変化術などに人々は目を奪われた。なお、大正四(一九一五)年八月には松井須磨子、島村抱月の芸術座公演も開催されている。
凱旋座では、映画の進出とともに明治四十年六月頃から巡回業者による映画興行を始めたが、年を追ってその頻度が増し、ついに大正三(一九一四)年十一月十五日を期して秋田県で最初の映画常設館となり、色彩映画や発声映画を公開するなど常設第一号館としての面目保持に努めた。しかし、ライバル館の出現競合などにより経営が圧迫される状態となって、同五(一九一六)年三月二十日限りで常設を廃止し、再び劇場として演劇と映画を随時行なうことに方針を変更した。
だが、それも束の間、凡そ三ヵ月後の六月十三日払暁、同座の不注意から出火、全焼してしまった。秋田が誇る自慢の大劇場は僅か十年足らずで烏有に帰したのである。
凱旋座を設立運営した株式会社は、同座が映画常設館となる前年に解散し、焼失当時は、後に秋田演芸株式会社社長となる田口松太郎が経営していた。
4 秋田市以外の劇場
㈠土崎港町
秋田県内における興行場の移り変わりについては、佐藤清一郎著「秋田県興行史―映画街・演劇街」に詳しい。新聞の記事等と併せ、この書を参考に明治期に建てられた劇場について概要を記してみる。
久保田城下町の外港に開いた土崎港町は古くから栄え、明治期においても県都の発展に伴って繁栄を続けた。市町村制が施行された明治二十二(一八八九)年の十二月末には秋田市に次ぐ第二の人口を占めている。従って秋田市で催された様々な興行は、引き続いて土崎で行なわれることが多かった。
明治十九(一八八六)年七月には秋田日日新聞に「土崎三津座で芝居興行」の記事がある。その「三津座」は土崎港小鴨町に在り、同年十一月には市川団五郎一座の芝居が行なわれている。秋田寺町にあった三津座が大火後に北鉄砲町へ移ることになり、その移転新築の間は土崎において営業を続けたものと思われる。
また、明治二十(一八八七)年四月に土崎港寺町の「菊地座」で浄瑠璃興行、同二十四(一八九一)年四月には土崎港町の「石文座」で芝居興行の記事が秋田日日新聞にみられる。共に一回だけの報道で終わっており、両座とも長くは存続しなかったのであるまいか。
土崎港町において劇場として定着したのは同町旭町「土崎座」である。土崎座が建築された年代は不明であるが、明治三十五(一九〇二)年六月には、秋田日日新聞が「長栄座で開催していた京都活動写真協会の活動写真を土崎座で三日間興行する」と伝え、さらに「秋田市に劣らぬ好評で毎夜一千余名の観客あり」と報じている。土崎座ではその後、芝居や浪曲の公演も行なわれたが、巡回業者の映画興行が次第に多くなり、大正七(一九一八)年一月二十八日から秋田市矢止館からの出張映写による映画常設館となった。
㈡本荘町等
本荘町の「新富座」「本荘座」は共に明治初期のかなり古い芝居小屋といわれる。「本荘座」は明治二十四(一八九一)年五月の大火で焼失し、同三十(一八九七)年頃に再建された。
大曲町では古くから芝居興行が盛んで、明治十四年に「大睦座」が建てられたという。同じく「高山座」は同二十五(一八九二)年頃からの芝居小屋であった。このほか、「勝町の芝居小屋」が明治末期に建ち、旧御本陣の「鞠水館」でも同三十五(一九〇二)年に映画の興行が行われている。また、「榊田座」は明治末期に浄瑠璃や浪曲等の興行を行なったというが、大正二(一九一三)年九月、映画上映中に機械の故障でガスが爆発し死傷者を出す惨事を惹き起こした。(三森英逸著「大曲市年表・大曲市民生活史」(昭和四十四年発行)には、大睦座の次に「横町に共栄座」が建ったとの記載がある。)
大館市史(昭和五十八年刊)には、明治三十一(一八九八)年七月に弁天町の「大館座」で映画が公開されたとの記述がある。大館座は、県内ではかなり早い時期に建てられた大きな劇場であったといわれるが、大正八(一九一九)年五月、大館大火の際に類焼した。
能代港町の「米代座」において、明治三十三(一九〇〇)年八月に衛生幻灯会が開催されたことが秋田魁新報に報じられている。その後も芝居、幻灯、映画などを開催しているが、大正十(一九二一)年一月に火災を起こし焼失した。
湯沢町の「高吉座」において、明治三十六(一九〇三)年三月に慈善幻灯会を開催しているから、同座の建築は明治三十年代の初めであろうか。大正末期に一部を改装して電気館と改め映画常設館となった。湯沢ではこのほかに同四十二(一九〇九)年落成の「延命座」があったが、僅か二年程で焼失した。
横手町では、明治三十七(一九〇四)年に「改著座」が建築された。同座は大正八(一九一九)年に解体され新館に変わった。この改著座を「阿桜座」とも呼んだという。
明治四十三(一九一〇)年八月には小坂鉱山(当時、小坂村)の厚生施設として建築された「康楽館」が落成、平成十四(二〇〇二)年からは、日本最古の木造芝居小屋として国指定重要文化財の建造物として保存され、現在も秋田県唯一の劇場として歌舞伎等の公演が行なわれている。同じ小坂町にあった「高栄座」は同四十(一九〇七)年頃の建築。
その他、角館町の「鴨川座」は明治十七年の創業といわれる。尾去沢鉱山(当時、尾去沢村)の「協和館」、扇田町「扇田座」、五城目町「五城座」などは何れも明治末期の建築であり、院内町「院内座」、増田町「加福座」、阿仁合町「阿仁合座」及び飯詰村「角間川座」も同様であろう。
第三節 興行の取締り・課税
1 久保田藩の取締り
㈠幕府の干渉
芝居等の興行に対する為政者の干渉は古くから行なわれてきた。江戸時代においては寛永六(一六二九)年に女歌舞伎が風紀上の弊害を恐れた幕府によって禁止され、女芸人いっさいが公衆の前で舞台に立つことが出来なくなった。
この後、明治二十三(一八九〇)年八月東京府が劇場取締規則を改める際に「男女俳優の混合して興行するも不問に付する」とするまで、公認劇場では女優不在が続いたのである。
また、天保十二(一八四一)年から始まった天保の改革では、江戸における芝居小屋の立退き移転ばかりでなく、俳優に対する風紀上の規律は峻厳をきわめたという。寄席においても江戸市中に文政年間(一八一八~三〇)百二十五軒有ったものが、天保の改革によって十五軒に減ったといわれる。
㈡久保田藩内の興行
金森正也著「近世秋田の町人社会」には、「もともと藩は、芝居は風俗を乱すものととらえ、これを極力禁止する姿勢をとった。これはどこの藩でも同じである」と記され、久保田藩における興行取締りの実態が詳しく述べられている。
織田久著「江戸の極楽とんぼー筆満可勢・ある旅芸人の記録」は、江戸の浄瑠璃語りの旅芸人富本繁太夫が、文政十一(一八二八)年から天保七(一八三六)年までの八年間、東北地方を流浪したときの旅日記をまとめたもので、見聞の記録は確かな史実と思われる。文政十二(一八二九)年九月、久保田城下に入り十二日間の興行を行なった際の日記には、
等が記録されているという。この日記の日付は陰暦であるから、全く農閑期に限ってのみ興行が許可されたことになる。
しかし、前記「近世秋田の町人社会」による文化十三(一八一六)年から文政四(一八二一)年にかけての事例では、四月から八月までの期間においても許可されているので、右の農閑期限定の免許措置は一時的なものであったと思われる。たまたま繁太夫の訪れた文政十二(一八二九)年当時は、その前の文政八(一八二五)年頃に重なる凶作に見舞われていたことから、農繁期の遊興を戒め、農家の勤労意欲をそぐことの無いよう農繁期は不許可としていたものであろう。
繁太夫は久保田城下の状況を
と記しているが、当時の久保田藩の窮乏ぶりがしのばれる。(右の〝関三十郎〟は、秋田で興行した芝居の役者の氏名であり、「上方下りの、どんな役でもこなす名人と評判の高い役者である」との記述がある。)
なお、「秋田市史」(平成十年刊)によれば、藩の政策として寛延三(一七五〇)年六月に八橋、土崎港、川尻、五城目で芝居が許可になって、秋田演劇史の草創期という。その後、上亀の丁や花立町でも許可され、宝暦四(一七五四)年には川尻新渡町にも芝居小屋が許されている。
2 明治期の興行取締り
㈠勧善懲悪の徹底
明治初期の劇場(芝居小屋)や寄席の状況は既に述べたとおりであり、興行場についてはかなり容易に許可されるようになった。しかし、明治十(一八七七)年に夜芝居が禁止されたように、怠惰を増長し風紀上問題があると判断した場合には興行の態様にも制限を加えている。
県は、夜芝居の再開を許可した同じ日の十一(一八七八)年二月十四日には「勧善懲悪の本意に反し淫風醜態を演ずる演劇は風俗を乱すので、そのような演劇は一切公演してはならない。興行する者は演劇の外題を警察に届け出ること。もし右のようなことがあるときは劇場に出張している警察官が演劇を中止させることがある」と演劇の内容にまで踏み込んだ布令を発した。
明治五(一八七二)年二月狂言作者たちが、東京府庁から、淫猥不義なものは禁ずるので教育的な内容の筋立てにするよう言い渡され、その後、二代守田勘弥、狂言作者河竹新七(後、黙阿弥)、同三世桜田治助の三人が東京府の区役所に呼び出され、勧善懲悪を旨とするよう注意を受けている。
維新後まもなく明治新政府は、勧善懲悪の趣旨にのっとり幕末以来の卑俗な歌舞伎の上品化、高尚化を意図して演劇に干渉したといわれるが、十一年二月の県の布令は政府の指示によるものであろう。ちなみに、明治五年八月、教部省は「演劇の類、もっぱら勧善懲悪を主とすべし、淫風醜態のはなはだしきに流れ、風俗を敗り候ようにては相済まず候間、弊習を洗除し、漸々風化の一助に相成り候よう心懸るべき事」を通達している(注8)。
㈡興行取締規則等
明治十一年二月、県は興行許可願いの手続きについて
「諸興行出願之者、是迄建元二名ヲ以テ出願候向モ有之候処、自今、願人ニ於テ自分免許場或ハ自宅興行之外、興行場借受候節ハ貸付人連印ヲ以テ出願可致旨、営業人共エ可相達候。此旨相達候事」
と各区戸長あてに通達し、手続きの簡素化を図った。
「秋田県警察史」(昭和四十四年刊)によれば、同十二(一八七九)年三月に「巡査劇場取締心得」を定め、劇場に出張して監視に当たる警察官の人員、職務内容等を規定した。
明治十二(一八七九)年には「違式詿違条例」を定め、興行の取締りはこれに拠った。興行に関しこの条例による取締りの対象となる者は「第十八条 淫行醜態ヲ演劇シ、又ハ之ヲ唱歌スル者。第十九条 男女相撲並ニ蛇遣ヒ又ハ偽造及ビ腐敗物、其他醜体ヲ見世物ニ出ス者」等であった。
その後、興行業者の遵守すべき事項についての総括的な取締規則として、明治十七(一八八四)年二月二十日に「興行取締規則」を制定し布達(甲第八号)した。
さらに、明治十九(一八八六)年五月十五日付の布達(甲第三十八号)により初めて劇場建築に関する規定として「劇場取締規則」を定めた。これらの規則に違反した者は違警罪によって罰せられるが、二十一(一八八八)年改正「違警罪」の罰則は「一日以上五日以下の拘留、又は二十五銭以上一円五十銭以下の科料。但し、軽い犯罪については五銭以上五十銭以下の科料」であった。
㈢コレラによる興行禁止
明治十九(一八八六)年は夏から秋にかけてコレラが全国で大流行した。大阪地方に発生して次第に東進し全国的に蔓延したのである。この年のコレラ全国患者数は十五万五千人、死者数は十万七千八百人という激しさであった。秋田県においても六月十日北秋田郡に発生、二十日ほどして南秋田郡に飛び、それから猛威を振るって蔓延し、初発から最終までに患者数四千八百八十一人、死者数二千八百二十四人を数えた(注9)。
県では同年八月十五日、県令をもって「コレラ病蔓延の兆候有之に付き、神仏祭礼或は相撲演劇並に人寄席其他諸興行等、総て衆人群集に関する事は当分之を禁止す」と予防措置を講じ、さらに九月三日には、この県令に従わない者は違警罪を以って処罰することを布達し警告した。コレラは十月中に撲滅され、十月三十一日限りで諸興行の禁止は解かれ、翌日には土崎港小鴨町の三津座で芝居、秋田馬喰町の神田亭で講談の興行が始まった。明治十九年の秋田県は、四月の秋田大火に続き、六月から十月にかけてコレラ大蔓延、十二月には天然痘が流行し死者六百人を超すなどの災難が続き最悪の年であった。
㈣放楽興行取締り
有料興行に対する取締りばかりではなく、明治二十(一八八七)年十月には放楽興行、つまり無料の娯楽興行をも取締りの対象とし、「祭典法会等ニ際シ神楽又ハ手踊若クハ放楽(見料ヲ徴セサルモノ)興行ヲ為サントスル者ハ、社寺境界ノ内外ヲ問ハス所管警察署又ハ分署ヘ届出ツヘシ」と県令をもって布達された。また、「秋田県警察史」(前出)によれば、同二十一(一八八八)年十一月に女相撲は風俗を害する恐れありとして不許可とし、翌二十二(一八八九)年十一月には蛇を断ち切ったり、これを噛ったりする残酷な所作を為すことを禁ずると共に、無鑑札営業者の取締りを厳しく実施した。
㈤演芸場及観物場取締規則
秋田県が罰則を伴う本格的な興行取締りの規則を制定したのは明治二十一年であった。この年四月十六日県令第二十五号をもって「演芸場及観物場取締規則」を定めた。この規則により明治十七年制定の「興行取締規則」及び十九年制定の「劇場取締規則」は廃止され、従来の免許による劇場、寄席も、更にこの規則に従ってあらためて免許の願出をすることになった。
この規則は本県における興行取締りの基本として、明治、大正から昭和にかけて長く存続し、昭和十五(一九四〇)年五月四日「興行取締規則」(秋田県令第二十一号)の制定に伴って、先の放楽興行届出の県令と共に廃止された。明治三十(一八九七)年代から映画(活動写真)の興行が各地で行われるようになり、大正三(一九一四)年には秋田市に映画常設館も誕生したが、暫くはこの「演芸場及観物場取締規則」がそのままの内容で映画興行にも適用された。同九(一九二〇)年七月に至って漸く規則の一部改正が行なわれ、活動写真及び活動写真館に関する取締り規定が加えられたのである。
3 興行への課税
㈠興行及び芸人への課税
「明治世相編年辞典」(昭和四十年刊)によれば、明治と改元するひと月前の慶応四(一八六八)年八月七日、新政府は、諸国(諸藩)の税制について、にわかに新法を施行してはかえって不合理になるので、一両年は旧慣によるべき旨を布達している。大阪府では明治四(一八七一)年、場代売上の二十分の一の興行税を定め、東京府では明治五(一八七二)年九月になってから、すべての劇場から定員の百分の一の額を徴収することを決めた。
また、山梨県や群馬県では同六(一八七三)年四月になって諸芸人に対する課税を始めたが、東京府でも同八(一八七五)年一月には、俳優は一円から五円、寄席芸人は二十五銭から五十銭の賦金を上納すべきことを定めた。
秋田県においては、廃藩置県の行なわれた明治四年以来、数多い雑税の廃止整理を進めていたが、同九(一八七六)年六月「県税賦課規則」を制定し、新たな税目と税額を定めた。この規則においては「第十一種劇場税、年税金七円」、「第十二種人寄定席税、二円五十銭」「第十三種写真税、一円」など十三種を規定している。
地方財政の基となる「地方税規則」が発布されたのは明治十一(一八七八)年七月であり、同年十二月には地方税中の営業税雑種税の種類及び税額の制限について右大臣岩倉具視名の布告があった。同布告では、営業税は一類会社、卸売商、二類仲買商、三類小売商に分け、一類十五円以内から三類五円以内までの税額とし、雑種税については税目を二十九種として夫々の制限税額を定めた。
雑種税のうち、演劇其の他諸興行は上がり高百分の五以内、遊芸稼ぎ人一ヵ年十二円以内、俳優一ヵ年六十円以内とされた。遊芸稼ぎ人とは、軍談講釈、落語声色、諸浄瑠璃、各種音曲、舞および踊、諸狂言、手品軽業、写し絵、八人芸、人形遣い、曲馬、能謡曲など、いわゆる寄席芸人である。各県では県会の決議により営業税及び雑種税の類目中から賦課する者を取捨し、その業の盛衰を見極めて、制限内において税額を定めることとされた。
秋田県では明治十二(一八七九)年四月二十一日「地方税徴収規則」を制定し営業税雑種税の種目と税額を定めた。雑種税のうち、演劇税と諸興行税については上がり高百分の三とし、その時時に徴収するものとした。また、遊芸稼ぎ人には年三円、俳優には年五円の税金を課することゝした。
なお、市町村税として、県税と同額の雑種税付加税を課することが許されていたので、興行業者は県が定めた課税標準の二倍の額を納める必要があった。
㈡営業税雑種税取締規則
明治十二年五月五日には「営業税雑種税取締規則」を定め、免許を必要とする種目と手続き、納税の方法などについて規定した。諸会社、諸市場等は県本庁において免許し、演劇、諸興行、芸妓については各警察署において免許するものとした。また、俳優、遊芸稼ぎ人等は鑑札が必要になった。明治十二年度における県費決算書によれば、雑種税中、演劇税百八十五円、興行税二百五十九円、遊芸稼人税百四十五円、俳優税百九十五円の収入となっている。
「営業税雑種税取締規則」は明治二十一(一八八八)年四月に改正され、納税対象の業種ごとに本庁、警察署または郡役所に出願し、その許可を得ることになった。 県税に関する規則は国の法整備もあって毎年のように改正され、その名称も「地方税賦課規則」、次いで「県税賦課規則」などと変わっていくのであるが、各年度の「営業税雑種税課目課額」は毎年県令をもって定められ公告された。
雑種税の中の演劇と諸興行については、二十七(一八九四)年度から「上がり高」による課税を改め、「一人分最高額の木戸銭、下足料及び桟敷、桝、ムシロの代金を合計した額の四倍」(明治三十四年度以降は桟敷、桝等を座料として、その一人分の二十五倍乃至三十倍の額とされた)を日税として賦課することになった。この一人分の四倍という額は、三十三(一九〇〇)年度は「六倍の額」に引き上げられた。
三十年代に入って、映画(活動写真)が巡回業者によって興行されるようになったが、映画については雑種税中の諸興行税に該当するものとして課税された。
三十四,三十五年の連続凶作による不況から、財源確保のため三十六(一九〇三)年度は「十倍の額」に増税されたが、さらに、日露戦争中の三十八(一九〇五)年度の課額は一挙に「三十倍の額」となった。三十倍、つまり三十人分の額であり、市町村税である付加税を加え木戸最高額の六十人分を日税として納めることになるのである。映画については何れの業者も毎回盛況であったが、その他の興行では、不入りで入場者が少ない場合には極めて厳しい興行となり、秋田への巡業が敬遠されるおそれがあった。こうした事情から、四十五(一九一二)年になって、県の演劇税及び興行税については「木戸銭最高額の二十倍」の額と改められた。戦争が終わって七年後に至りはじめて軽減されることになったのである。
遊芸稼ぎ人及び俳優に対する課税については、明治二十年代に一時減額されたが、三十四年頃から再び遊芸稼ぎ人三円、俳優五円の県税額で明治末まで変わらず推移した。なお、演劇場の所有者には雑種税として演劇場税が課せられ、四十五年の県課税額は、客間一坪につき年税三十銭であった。
「県税賦課規則」は、昭和七(一九三二)年に「秋田県県税賦課条例」として全面改正されるまで、大正から昭和にかけ幾度か改められた。また、「営業税雑種税課目課税」は、大正に入ってからも課税額などがしばしば変更され、紆余曲折を経て昭和十五(一九四〇)年九月「秋田県県税賦課徴収条例」が制定されるに及んで廃止された。
こうして明治初期には娯楽興行の基礎的環境が着々整備され、明治十年過ぎには写し絵が幻灯となって映像文化が到来し、やがて明治三十年代には秋田でも映画が活動写真の呼び名で興行される。
そして大正から昭和にかけて無声からトーキーへとその歩みは続き、太平洋戦争を経て映画は鮮やかな色彩を得て、戦後、テレビ出現を前に史上最高の映画時代を迎える。この間、まさに映画興行は、庶民の最も楽しみとする娯楽の王者として君臨するのであるが、noteでは、その出現から戦後最盛期まで約六十年間における秋田での歩みを、秋田市の常設興行館を中心に発展の記録として記述する。
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