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とある書店員の、映画「麻雀最強戦」の感想


※近代麻雀WEBに掲載いただいた映画の感想のノーカット版です

「映画麻雀最強戦」を、地元の京都は出町座で鑑賞した。
出町柳駅から徒歩5分ほど。出町商店街のアーケードの軒並みに佇む、古き良きサブカル熱が感じられる洒落た瀟洒な映画館だ。学生時代はこうした「文化的」な空間に足繁く通っていたものだが、社会人になってからは滅法、足が遠退いていた。

竹書房主催の麻雀最強戦が映画化されると知った時、すぐにはその意味が分からなかった。小説や漫画原作の麻雀作品が映像化されることはあれ、リアル麻雀のタイトル戦をドキュメンタリータッチで映画にするなどという試みは、寡聞にして知らなかったからだ。
果たして興行として成立するのだろうか?

実際、新宿の映画館で300人キャパの劇場を3日間押さえようとした金本晃プロデューサーは、麻雀映画などというニッチなジャンルには「ハコが大きすぎる」として、当初反対されたのだという。それでも彼には勝算があったのだろうし、蓋を開けてみれば、公開を延長するほどの満員御礼になったというのだから、やはり麻雀狂の読みは違う。毎年毎年、現場で最強戦の熱を直に浴び続け、ついには爆発してしまった頭髪の持ち主である実行委員長には、だから確信があったのだろう。
この熱狂は「外」にも広がる、と。

東京の日本橋と大阪の梅田とにあるMリーグショップの9月のOPEN初日には、開店前から長蛇の列ができていた。
グッズやサイン本が飛ぶように売れ、Mリーガーとの撮影イベントを催せば、これも大盛況だったという。
ふだんMリーガーに会いたくても雀荘には通えない少年少女や、雀魂を中心としたネットゲームから興味を持ち出した若者たち、それに自身は打たないもののMリーグに魅せられ麻雀ファンになった「観る雀」の客に受け入れられたのだろう。
雀荘は敷居が高くとも、本屋に行くのを怖がる人間はいない。
Mリーグは「この熱狂を外へ」のスローガンそのままに、着実かつ迅速に麻雀ファンを増やしている。
その実感は、Mリーグに関わる者ならみな、肌で感じているだろう。

そんな熱狂の渦中に麻雀最強戦が映画化されるのだという。その題材や出演者などの情報をシャットアウトし、しばし想像してみる。

直近の最強位といえば、日本プロ麻雀連盟所属&チーム雷電の瀬戸熊直樹。
鳳凰位リーグではA2に陥落し、チーム雷電は歴史的な大敗を喫してしまっていた。自身も麻雀人生の中でも絶不調を認め、「最強位を獲る」などとは烏滸がましくて到底、公言できなかったという。トレーニングのつもりで。愉しむつもりで。
それでも卓上の暴君は、ひとたび卓につき牌を握ると、あれよあれよの快進撃を果たしてしまう。

記憶が蘇る。
なるほど。確かにあの半荘のあの最終局をピークに物語を織り成せば、映画は面白いものになるかもしれない。麻雀を愛好する者はもとより、麻雀に興味を持たない人々にも、訴求できるかもしれない。感動を与えられるかもしれない。何せ、新王者が誕生したちょうど1年前のあの半荘のあの最終局は、美しく、泥臭く、熱く、要するに奇跡のような産物であり、すでにして伝説的な一局に昇華していたからだ。
その瞬間、
倍満ツモ条件の成就という「事件」の瞬間を目撃した誰もが、
知らずこう漏らしたはずなのだ。
恍惚の面持ちと共に、感動の涙と共に、嘆息と共に。
言葉にならない言葉で。
「映画かよ」

多くの麻雀プロと同じように、私にとっても最強位は、最初に認知した麻雀のタイトルであり、読者としても憧れのタイトルだ。
むろん地方の予選会に出場した年は、一度や二度ではない。雀鬼会が強かった最初期から(プロ否定宣言!)システムを少しずつ変更し、今では日本最大級のオープントーナメントとなっている。麻雀最強戦も、いずれM-1や紅白歌合戦と並ぶ師走の風物詩として数えられる日が来るかもしれない。何せ、多くのタイトルを獲得してきたトッププロでさえもが、未だに一番欲しい称号として「最強位」の冠を挙げるほどだ。それほど、インパクトや認知度や歴史が違うということだろう。
金本実行委員長の「日本で一番麻雀が強いのは、誰だっっっ!(迫真)」の煽りもすっかり人口に膾炙した。
それにしても、終映後のトークショーで開口一番、挨拶代わりにこの文句を発し、会場がややウケしたのにはむかついたし、口上を生で聞けた「お得感」にしばしとはいえ感慨に浸ってしまったあの時の自分を、今では棍棒で滅多打ちに殴ってやりたい。

閑話休題。
そんな最強位の称号をもっと世に知らしめようと、2020年に悲願の戴冠を果たした多井隆晴は、瀬戸熊に会うたびに「最強位様、おはようございます」の挨拶を強要した。ハラスメントとはこのことだが、意図を汲んだ誠実な盟友も、そのノリにノリで応じた。
多井隆晴から瀬戸熊直樹へ。

最強位がこのタイミングでこの両者に継承されることで、どれほどの価値や宣伝効果をもたらしたことだろう。
共通項は、自団体のトッププロというだけではない。彼らは最強位戦にとって、実に働き者で献身的な男たちなのである。多井は「最強位」であることを連呼することでタイトル自体に更なる箔を付け、オレ流のやり方で最強戦や竹書房に恩返しをした。一方の瀬戸熊も予選終了後の深夜長時間に及ぶ動画配信や今回のような映画舞台挨拶行脚で、最強位としての責務を立派に果たしている。
最強位を獲ろうが団体最高峰のタイトルを獲ろうが、そのように振る舞わねばならないという決まりも必要もない。誰からも強いられていないし、黙っていても誰も文句は言わない。エンタメとして消費されることがタイトルの価値を毀損すると考える打ち手すらいるかもしれない。
だが、多井も瀬戸熊も常に視聴者=お客様ファーストの打ち手である。斯界の第一線にいる本物の「プロ」とは、彼らのようなことを言うのだろう。プロであるからには魅せねばならない。サービス精神が旺盛であるという点においても、彼らの価値観や志向性は共通している。
あるいは本映画にも登場する、Mリーグの生みの親であり、自身も2019最強戦の覇者である藤田晋社長。麻雀プロをどうにかしてやりたいと立ち上がった、麻雀界の救世主。
そして「東大式」を標榜し、早くから健康麻雀の普及に努めていた井出洋介。
彼らもまた、麻雀界とその「外」について常に考え、実際に行動に移してきたという点でプロ中のプロだし、むろんその巨大な功績については知っていたものの、今回インタビューに応じる彼らの姿を見て、改めて頭が下がる思いがした。

こうしてドキュメンタリー調の映画は、ちょうど1年前の「麻雀最強戦2021」の予選から対局者のインタビューをまじえ、時系列順にその帰趨を追っていく。
どんな組み合わせの対局でもドラマが生まれると言われるくらい劇的な最強戦だが、2021も例に漏れず「事実は小説より奇なり」を地でいく短期決戦の名勝負を輩出し続けた。 
とりわけ全日本プロ選手権における日本プロ麻雀連盟・原佑典の面前清老頭(自摸なら四暗刻)和了は、放送対局ではおそらく空前絶後、二度とお目にかかれない記録映像として本映画に収められたことが、極めて貴重なアーカイブとなった可能性は高い。

映画的体験としては、スクリーンの大画面で牌や麻雀プロの半身が躍動する、あの迫力に酔い痴れた。牌の音も全自動卓の撹拌音も、すべてが美しく、心地よい。オープニングを飾るに相応しいお洒落なジャズピアノとの「セッション」も素敵だ。途中、何度か挟まれる「ただいま球場音だけで放送しております」のような場面も新鮮だった。実況も解説もない、ただただ4人が卓を囲み、見えない牌をめくり合う光景。対局者の息遣いがリアルに聞こえてくる。その場に立ち会えた者だけが感じることのできる、震えるような緊張感と、押しつぶされそうな極限の空気。観客もまた、それを疑似体験できる。テレビやネットではなかなか味わえない、正しく映画的な経験であった。
そして、クライマックスはもちろん、最強位決定の瞬間。

劇的な倍満ツモ条件の成就。しかも2枚あるとはいえ、裏ドラが乗りにくい形からの裏1条件。瀬戸熊自身は、裏話としてその所作を反省していたが、
魂を込めた強打も、震える手指も、牌を握り潰さんばかりのグリグリも、
何もかもが映画の「演出」として役者に要求する動作として完璧だ。そしてむろん、それは演技ではないのだ。これこそがドキュメンタリーの、リアルな凄みなのである。
真剣に、己の全身全霊でもって眼前の勝負に賭ける戦士の姿は、魅力的で美しい。男女を問わず、年齢を問わず、ひとが、考え、迷い、恐れ、怯え、震え、泣き、歓喜する様子には色気が充溢している。運命に抗おうとし、立ち向かい、もがき苦しむ姿は、気高く、勇ましい。実況の日吉辰哉はインタビューで述べていた。「敗者の散りざま」を大事にしたいと。志半ばにして去る者の背中もまた、果敢無くも美しいのである。

巨大なスクリーンからは、日本プロ麻雀連盟・一瀬由梨のすすり泣く「音」が聞こえてくる。オンタイムで観戦していた時、その展開の意外性に胸を打たれ、なぜか無関係の私がひどく狼狽してしまった。それは一種の、共感性羞恥というやつだったかもしれない。
筋書きのあるドラマでも、このタイミングから女優に涙は流させない
いったい、なぜなのか。どうしたというのか。
その時は、大舞台での経験の浅さからくる過度のプレッシャーに加え、同卓者である醍醐大や宮内こずえ、何より瀬戸熊直樹の迫力に気圧されているのだろうと勝手に推測していた。一瀬の「奇行」とも言えてしまいそうな嗚咽と悲壮感に、引きずられ、集中を切らされている者はしかしいないように見える。一瀬以外の三人は百戦錬磨のベテランだ。実況の日吉だけが彼女を励ましている。
それは実に奇妙な光景であり、状況だった。

確かに恐怖だろう。自分でも、泣きはしないにしても震えるだろうな。
すっかり私は一瀬に感情移入していた。
結果的には、一瀬のこの涙は多大な効果を映画にもたらしたように思える。来るべきカタルシスを用意し、圧倒的な感動に寄与する役割を担ったのではないか。たかが麻雀で人は泣くし、震える。キャリアの浅いプロと幾つものタイトルを獲得してきたベテランプロが平等に同卓し、見えない牌をめくり合う。そのシンプルさ、故の残酷さ。麻雀の、魅力。
そして涙は、一瀬自身の知名度向上にも大きく貢献したことだろう。「裏セレブ」の異名を持つこの女流は元来、不思議な色香を漂わせている。またひとり、魅惑的なプレイヤーが誕生した。本映画における、助演女優賞と最優秀音響効果賞?のW受賞に値すると思う。
後に彼女は述懐する。涙の理由を。
プレッシャーもあったが、それだけではなかった。
「私の優勝は望まれていない」と感じてしまったのだ、と。

おそらく、勝負師として云々ということは何度も言われただろうと思う。弱すぎる、甘すぎる。だが私は、この言葉に戦慄した。極限の勝負の渦中にあって、なんと客観的な意識の在り様だろうか。
そして、残酷だが彼女のこの認識は正しいと言わざるを得ない。
予選から圧倒的な1位力で勝ち上がり、プロデビューのきっかけが多井と瀬戸熊の生徒役だったという宮内こずえ。最高位戦を代表し、いま脂が乗りに乗りすぎて入場のシーンでは顔がテカっていたように見えた醍醐大。そして、多井に「運」を託された瀬戸熊直樹。
一瀬由梨に、彼らに匹敵するほどのバックボーンはなかった。ハナから、役者が違った。誤用の意味での「役不足」だった。しかし「私の優勝は望まれていない」という絶望と諦念が、彼女の人間としての凄みを際立たせてはいないか。
零れた涙にこそ、意地を見た。
泣きながら彼女は、ツモあがりを決めた。
そして、思えばこれが、最初の涙だった。

それが契機であったかのように、ここから文字通り堰を切ったように、麻雀最強戦はフィナーレに向けて、涙で濡れ、涙に彩られていく。
その瞬間、司会の小山剛志までもが男泣きし、番組を進行できない羽目に陥っていた。
実況の日吉も、流れる涙を隠さない。
瀬戸熊も、号泣している。
その裏では多井が、自身の動画配信「たかちゃんねる」において、優勝インタビューで彼への感謝と絆を述べる瀬戸熊の姿に「ヤバイヤバイよ」と言いつつもらい泣きしていた。
これほど涙でいっぱいになった放送対局も空前絶後だろう。

映画は、戴冠の歓びに両手を突き上げる瀬戸熊を捉え、エンドロールへと移る。オープニングに円環するような、劇伴のピアノジャズが心地よい。時に静謐で、時に猛々しくもある。それが、一局の麻雀や一日の最強戦を象徴するかのように響く。

きっちり優勝の瞬間を収めて終わったかに見えた映画最強戦の幕切れは、しかしいささか、唐突にも思えた。後日談は無いのか。勝負の余韻は無いのか。これでは席を立てないぞ。

だが、エンドロールの中途に、それこそ後日談的に挿入された「小芝居」があった。いわばボーナストラックのようなものだ。いや、それは本物のプロたちが魅せる最高最良のファンサービスだったに違いない。

前最強位の多井隆晴が、新最強位の瀬戸熊直樹に「最強位様、おはようございます」と頭を下げる。それは「最速最強」からの、最高のプレゼントであり、最大の祝福だ。
握手と抱擁を交わし、建物の中に消えていくふたりの「漢」の背中が、たまらなく格好良い。男でも濡れる。
私は、ただの小芝居とも蛇足とも言えないこのシークエンスに満足して、爽やかな気持ちで出町座の席を立ったのだった。

こうして映画は終幕したが、むろん最強位を巡る戦いは終わらない。
今年もまた人々を嘆息させ、熱狂させ、感動の渦に巻き込むクライマックスが待っている。そして飽きもせずまた呟くのだ。 

「映画かよ」


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