二律背反

 その日、僕はお洒落なイタリアンレストランにいた。

 偶然、美咲と休みが一緒になり、以前から美咲が行きたいと行っていたお店に行くことにした。

 その店は地下鉄で20分ほど乗ったところの非常に近い場所にも関わらず、今までなぜだか行く機会に恵まれなかった。楽しみだねと嬉しそうに微笑む美咲に、うんと僕は微笑み返す。吊革に掴まりながら電車に揺られていると、乗客がちらちらと僕の方を見ているのがわかった。なぜだろう。服装がおかしかったのかな。でも、美咲には特に何も言われなかった。僕の服装の組み合わせなどがおかしいとき、いつも美咲は正直に「なんかその組み合わせ、変だよ」と言ってくれる。だから今日も大丈夫なはずだ。

 目的のお店には歩いて数分で辿り着いた。僕も美咲も方向音痴だから、出掛けるときはいつも2人揃って道に迷ってしまう。でも、今日は迷うことなくすんなりと到着した。

「今日は迷わなかったね」
「いつも迷うのにね」

 ドアをくぐった瞬間、アコースティックギターの鮮やかな旋律が耳にすっと流れ込んできた。体の隅々に浸透していくようで、馴染んでいくようで心地良い。

 店内のすぐ右手にはレジがあったが、店員はいなかった。少し待っても誰も来る気配がなかったので、レジに置いてある呼び鈴を押すことにした。するとすぐに店の奥から店員が現れた。

「大変お待たせしました。お一人様でしょうか?」
「いえ、2人です。あの、予約してないんですが、大丈夫ですか?」
「カウンター席しか空いていないんですが、いかが致しましょう?」

 ちらっと美咲を見やると、うんと頷いている。

「はい、カウンター席でかまいません」
「それではご案内致します」

 案内された席にはちょうど2名分の席が空いていた。椅子を引き、美咲を座らせた後、僕もその隣に座る。店員が訝しげに僕のことを眺めているのが気にはなったが、手元のメニュー表に集中することにした。お酒の種類も豊富で思わずにんまりとしてしまった。

「ちょっと、何にやにやしてんの?あんまり飲みすぎないでよ。酔うといつも記憶なくすんだから。大変なんだよ」
「ごめん、ごめん。今日はそんなに飲まないから。そんなに」
「そこ、強調しないで。飲み倒すフリみたいになってるから」

 メニューに一通り目を通したところでお酒と料理を注文することにした。店員に声を掛けたところ、少々お待ちくださいと言って店の奥に消えていった。

「私、ちょっとお手洗い行ってくる」
「うん、行ってらっしゃい」

 美咲がお手洗いに行っている間、店員が注文を取りに来たので、2人分のメニューを注文した。
「では、注文は以上でよろしいでしょうか?」
「はい、大丈夫です」
「あとですね、お連れ様はいつ頃・・・」
「いつ頃というのは?」
 この店員は何を言いたいのだろう。
「いえ、いつ頃来られるのかなと思いまして」
「一緒に来ましたけど」
「一緒に、ですか?」
「はい、今ちょっとお手洗い行ってますけどね」
「あっそうですか・・・。かしこまりました。先にお飲み物をお持ち致しますので、もうしばらくお待ちください」
 店員は一瞬、不審な目を僕の方に向けて去って行った。僕は元々、他人に対して声を荒らげるタイプではないが、それにしても失礼ではないか。応対を見るに、入ってすぐの新人という感じではなさそうなのに一体どうしたというのだろう。

 少ししてから美咲が戻って来た。美咲が顔を近づけて、ひそひそ声で話し始めた。

「なんかさ、ここのお店の店員さん、おかしくない?」
「どうしたの?」
「お手洗い行こうとしたらさ、めっちゃ見てくるの。そんなにトイレ行くのおかしいかなあ」
「美咲が綺麗だから見とれてたんじゃないかな」
「そんな感じの目つきじゃなかったよ」

 店員のおかしな言動に反して、次々と運ばれてくるお酒や料理は絶品だった。美咲に止められていたにも関わらずまた飲みすぎてしまった。

 記憶が混濁している。少し意識が遠のいている感覚があるから、どうやら少し眠ってしまっていたのかもしれない。テーブルの上を見るとワインボトルが何本も開けられている。また美咲に怒られるなと思い、隣を見ると美咲がいない。トイレにでも行ったのだろうか。

 酔いを冷ますため、お水を頼もう。通りかかった店員に声をかける。
「すみません、お水ください。2人分」
「はい、かしこまりました。ただ、当店はもう少しで閉店のお時間でして」
「えっ」
 慌てて腕時計を見ると、もう12時になろうとしている。周りを見渡すと客は僕たちだけのようだ。
「すみません、お水飲んだら帰ります。もしかしてお客さんって僕たちだけですか?」
「僕たち?えっどういうことでしょう?お客様だけですね」
「連れの女性がいると思うんですが、トイレにでも行ったのかな」
「今日、お客様はお一人でご来店されていますが。なので、店内にはお客様お一人だけですよ」

#小説 #短篇小説 #日常

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