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死体の町に住む

 今年の四月、就職を機に隣の県へ引っ越してきた。それが結構な田舎で、大きな通りを離れれば夜なんて真っ暗である。
 加えて、動物を見かけることが多い。原付を走らせているとイタチや蛇が偶に飛び出してくる。田んぼではサギみたいなデカい鳥がよく飛んでいるし、脇の水路にはたくさん亀がいる。僕は見ていないけれど、一度近所にカモシカが出没したみたいで、町の放送局が近寄らないよう注意を促していた。会社の上司が言うには、昔はキジもいたらしい。「ケーン」という鳴き声がして家の窓を開けると、キジがすぐそこにいたことがあったとか。

 さらに、湖と海が近くにあるせいか、夏前くらいになると道に大量の蟹が現れる。深夜、散歩中に入った誰もいない地下道は、まさに蟹の王国だった。その光景に、ちょっと感動までしたのを覚えている。
 でも、地下道は別としても、蟹たちが這い出てくる道路は、当然人間の車もばんばか通るわけで。日中に出歩くと、ぺしゃんこに潰された蟹の無残な死体がそこら中にあるのが見てとれる。それも強烈なイメージとして、まだ記憶に新しい。

 そう。田舎は生き物が多い。生き物が多いということは、すなわち死体も多いということだ。
 僕がこちらに越してきてからの数ヶ月で目撃した死体は、イタチが一匹、カモとツバメが一羽ずつ、蛇が三匹、猫が二匹。蟹は数えきれない。帰りがけに死にかけの小鳥を見つけて、轢かれないよう脇に寄せてやったこともあるけど、あれもたぶん後で死んだのだろうと思う。
 中でも衝撃的だったのはイタチで、たぶん車に撥ねられたと思しき死体がまだ比較的新しい状態で道に横たわっていた。遠くからだと謎の茶色の塊に見えて、ハエも集っているのでクマの糞か何かかと思ったが、じっさいは茶色い毛をした小動物の死骸だった。生前の愛嬌をまるで失った鬼気迫る横顔と、立ち上ってくる強烈な腐敗臭。それまで、「野生の死」というのを間近で見る機会があまり無かった僕にはそれらがとても印象深く映った。

 また一方で、人間の訃報も目にすることが多くなった。これはどちらかといえば僕の個人的な状況に原因がある。
 仕事に就いて働くにあたって、やることが無く暇な時間がしばしば発生する。かといって堂々とスマホをいじり倒すわけにもいかないので、基本は新聞やネットニュースを見て暇を潰している。そうすると、どこそこで事故があっただの、誰かが殺されただの、そんな類のニュースも結構目に入ってくる。よく話題に上がる、海外での紛争でだってもちろん人は死んでいる。
 そういうことを目にする機会が多くなったなと感じるが、特段嫌な気持になったり、過度に同情的になったりはしない。実感が湧かないからだ。そして、人が死んだということに対して実感が湧きにくいのは、恐らく人間の死体をあまり見たことが無いからだ。

 僕が見たことがある人間の死体は、数年前に死んで、棺桶の中で干からびて小さくなった祖父の遺体だけである。それもある程度きれいに整えられて標本みたいにしつらえられたものだから、生の死体(嫌な表現だが)とは言い難い。じっさい僕の中では、祖父の遺体と生前の祖父が、今もってどうしても結びつかない。

 僕は死体を見て、綺麗だとか、ポジティブな感情を持ったことは無い。そんなもん当たり前だろうと言われるかもしれないが、その逆に、ネガティブな感情もあまり抱いたことが無い。
 ただ、自分の周りに具体的な死や訃報が投下され続けていると、なんだか不思議な気分になってくる。「城の崎にて」という志賀直哉の有名な作品の冒頭で、蜂の死骸を見た語り部が死への親しみを感じるシーンがあるけれど、今の自分もそれに似た感じを抱いているのかもしれない。「城の崎にて」ではそこからさらに死への考察が深くされているけれど、僕にはまだそこまでは分からない。それは僕があまり賢くないからかもしれないし、まだ溺れかけの鼠をじっさいに見ていないからかもしれない。

 一か月ほど前、新聞の小さな欄に、地域で最近亡くなった人達の名前と住所が、その死因と共に並べられていた。ほとんどは老衰で、中には僕の借家のすぐ近所に住んでいらした方もいた。亡くなった日付も、僕が越してきてからである。当然だがそんなことは露ほども知らなかった。
 田舎に充満する死の濃厚な匂いが、偶に僕を居た堪れない気分にさせる。それは悲しみとかそういうのじゃなくて、僕の今の生活とか喜怒哀楽が、死というどうしようもないものによって無に帰される虚無感と高揚感。死体の溢れかえる町の中で自分も同じように腐っていく気がして、それが情けなくも少し怖い。


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