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ナルコティクス アノニマス Regardless of... 「~に関係なく」の章より


(英文ベーシックテキスト第6版P155~P175)


 アディクションという病気は差別をしません。ナルコティクス アノニマスにおいても同じです。文献には、NAは人種、性的アイデンティティ、信条、宗教の有無などに関わらずどんな人にも開かれていると説明されています。出身地、育ち、どんな生活していたかは問題ではなく、NAのドアは私たちに開かれています。この章にでてくるメンバーたちはNAプログラムに、そしてあるはずもないと思っていた自分自身の中に、愛と受容を見出した経験について書いています。



リフレクション(回想)                                                   


 初めて52歳でNAミーティングに出たとき、私はある女性の言葉を聞いた、「もし今日はじめての方がいたら、正面にでて来て、ホワイトキータグを受け取ってください」。そこにいた60人全員が私の方を振り返り、私の方をみた。私は部屋の正面に出て行って、四年ぶりに人と体を付き合わせることになるとは思っていなかった。素敵な女性が私にタグを渡してくれて、まるで自分の子供にするように私を抱きしめてこうささやいた。「もう再び使わなくていいわ」。私が何年もなくしていたものを彼女は与えてくれた。―それは希望だった。
 いま私は65歳で高齢の市民であり、13年クリーンでいて、そして二人の孫の祖父になった。彼らは無条件の愛のスピリチュアルな原理を教えてくれる。誰かのためで何かできるようになったことは、わたしの人生でもっとも価値のある経験になっている。

 私は北方の凍てつく暗い場所で生まれ、そこで育ったエスキモーだ。私はママの手作りのパーカを着ていて、子供たちはそのパーカのことをからかった。私はパーカやママ、自分の民族、そして自分自身も嫌いだった。薬物はその棘を取り去りって、忘れさせてくれた。実際、自分はその民族から出してもらった奨学金とともに、そこから逃げた。自分の病気は進行して、薬物のために金は消えた。自分よりも酷い状態だと思っていた友人から、NAミーティングに行ったほうがいいといわれた。私は一緒にいってくれないかと彼に頼んで、NAにいってみた。そこで読まれることや他の人たちが分かちあう内容に関係しているとすこしわかった。そしてミーティングが終わり、そこを離れるとき、とてもよい気分だった。
 それからたくさんのことが起きた。長い間目の前にいる他の人たちと分かち合うことができなかった。スポンサーの助けと自分なりの努力で、多くの分かち合いの時間を持つことができるようになった。それは驚くべきことだ。ステップをやり、ミーティングにいくことが、自分自身、文化、民族性を受け入れるための助けになる。今日、自分であることに誇りをもっている。

 ミーティングで、自分がゲイであることを分かちあうことが非常に難しかった。5年クリーンでいて定期的に同じミーティングに出ていた。その間すっとゲイだということを黙っていた。自分の恋愛関係を話すときは、ボーイフレンドのことを「彼女が」とか「彼女に」と話していた。大きなミーティングで自分の物語を話してほしいと頼まれたとき、真実の私を分かちあうための新たな正直さが求められていると気づいた。
 話をする予定のその夜、スポンサーは予想していなかった人、メンバーではない自分の妻を連れてきた。オープンミーティングだった。彼女は何度か私を夕食に招いてくれたり、また彼女は敬虔なクリスチャンだった。彼女に自分がゲイであることを知ってほしくなかった。彼女に拒絶されそうで怖かった。その夜オープンに分かちあうことができるように神に祈った。恐れていたのだけど、一番最初に正直にそのことを話した。話を終えたとき彼女はまっすぐに私をみて、大きな美しい笑顔を見せてくれた。それはすべて問題ないと語っていた。人々はハグをしに近づいてきて、ゲイでいることをからかったり、冷やかしたりする者はいなかった。そのときから、ナルコティクス アノニマスでゲイの男も回復できるのだとわかった。

 スピリットと共に私はネイティブ アメリカンとして生まれ、七人のガーディアン スピリットの加護を受けていると教えられた。アディクションが発症して、ガーディアン スピリットたちは散り散りになり、私が自分自身を救う気になるまで、彼らの助けがとどかなくなった。アディクションは生きて呼吸もしている病気で、もっとも愛する人たちを奪ってしまうのだと信じるようになった。それはすべて失くしてしまうまで、人の人生をずたずたに引き裂いてしまう。絶望のなか、夫を呼び戻してほしいと頼んだけれど、スピリットは私の元を離れてしまっていた。
 実際、私は自分の民族地区からも追放された。そして二年間刑務所にいた。私は疲れ果て、心から変わりたいと願った。死んだ妹が私のスピリットの中にやって来て、「いまならクリーンになれるわ」といった。私は彼女の言葉を信じた。NAと共に、自分の人生に謙虚でいられるようになった。私はすべての人たちに埋め合わせをして、公に自分の祖先たちにも埋め合わせをした。民族は記名投票をして、私を支持して認めてくれた。いま人々が私のもとに戻ってきてくれている。私のスピリットはいまも生きている。回復に感謝している。

 私は誠実で、深い信仰を持つ宗教一家で育った。教会は私の社会生活の中心に存在していた。そして宗教学校に通っていた。そうあろうとしても、まったく自分に合っていなかった。私は未婚のまま妊娠して、家族を困惑させた。そのことを聞いたとき、父は泣いていた。私は子供を生むことを選んだけど、それは自分の宗教の教えや、父を気にかけてのことだった。私はかわいい男の子を出産して、他人の家族へと彼を手放した。そのときの痛みを伴う真実は、家族や、教会、社会のプレッシャーに私が屈してしまったことだった。 
 大学のあと、私は薬物を見つけた。私の暴走は、精神的に、スピリチュアルに破綻するまでとまらなかった。私はトリートメント施設にたどり着いて、それから19年間スポンサーになってくれるある女性に出会った。クリーンの8年目のとき、スピリチュアルな成長がとまっているのを感じた。私はインドの伝統あるスピリチュアルリーダーと接触した。私は自分の来た道を学び、神と共にいる愛の中にいることを経験した。私はNAのフェローシップが、このせいで私のことを拒否するのではないかと不安になったけど、私のコミュニティは驚いたことにそのことを支持してくれた。さらに最近のことだけど、インドではなくメキシコのスピリチュアルな伝統について学んでいる。地球やスピリットから受けとる方法を私たちに示してくれる先生を持つことができた。私は新たな目覚めのきっかけをつかんで、ずっと眠り続けていた自分自身がいたことを発見した。
 数年前、養子に手放した自分の息子に会えた。それは奇妙ですばらしいことだった。私は以前母親だったけれど、物事がまったく違ってしまっていて、今は母ではなかった。それは「見知らぬ親類」とでもいえばよいのか。いまもその物語は続いている。

 二ヶ月クリーンでいて、NAでアクティブに参加してステップをやり、以前のハイになるためのオブセッションはなくなっていた。そして二度と戻ってはいない。無神論者の自分としては、このプログラムでも他のアディクトは「パワーの例のひとつ」だった。その力は変わるために効果のあるものだと理解していた。私の周りにあるパワーはクリーンで世界を楽しんでいるアディクトたちが毎日の問題を解決していく姿をみていた。そして私にとって、見たものは信じられる。
 回復で学んだすべては、他のアディクトから得られたもので、同じような問題で打ち勝つためにうまくいったことなどだ。祈りなど信じなかったけれど、他のメンバーがやったように自分もやってみた。私は祈りに効果があるのなら、世界で不幸な人などだれもいないはずだと思っていた。しかし自分自身を生活の中でステップや伝統に向かわせている限り、NAではうまくいっている。






彼女は20年連れ添った夫と一緒にクリーンでいました。そして8年後に末期癌の夫をと看護しました。同時期に彼女の両親もまた病気で危篤の状態でした。そして61歳のいま、彼女は年齢や状況に関わらず、プログラムは私たちを助けてくれることを分かち合ってくれています。(P278~P282)


決して独りじゃない     

                           


 私は今61歳で、15年の間クリーンでいます。夫は私と同時にクリーンになった。彼はその時52歳で、私は46歳だった。私たちは、ミーティングに来ている人たちのほとんどよりも年齢が上の子供たちがいた。私たちには、NAは若い子たちの集団に思えた。私たちと関連することはないだろうと。

 ミーティングで会った人の中で、私たちが最も年を取っていたのだけど、ミーティングに居続けてNAの回復のメッセージを聞いた。それはどんなアディクトでもクリーンで生きることができて、使いたい欲求もなくなる、というものだった。私たちは毎晩ミーティングに行った。来る日も来る日もその若い子たちの集団と一緒にミーティングルームに座りながら、彼らが自分の話をしているのを聞いた。私たちは、人々はそれぞれのアディクションによって行き着いた絶望と、やめようとしても出来なかった痛みについての感情について話していた。それらの話を聞いて年齢に関係なく、アディクションの痛みはみんな同じなんだ、そしてこのミーティングは私たちが参加していいのだとわかった。その後に、自分と同じ年代の人たちとも会うことができた。

 薬箱から盗み取っていたまだ小さな子供だった頃から私はずっと使ってきた。高校時代での親友の父が麻酔科医だった。私たちは、どの薬にするかを決める医者用のカタログを使用しようとした。その頃、また違う友人の一人が私に大麻をくれて、彼女は「吸ってみなよ」と言った。私は彼女のように格好よくなりたいと思ってやってみた。それからの33年間、海岸から違う海岸へと薬物を追い続けて、生活の中心には薬物があった。

 1960年代の終わりから1970年代の初めはすべてのアメリカ人が薬物を探し求めていたかのようだった。私はそのカルチャーの先陣を切っているかのように感じていた。しかしほとんどの人たちが使うのとやめていくように感じてたときも、私はやめなかった。最終的に本当にやめようと思ったときも、私はやめられなかった。

 結局1980年代の末の頃に、私の夫がうつ病になった。想像してみてほしい!あなたの体は抑制剤で埋め尽くされていて、どうしてうつにならないでいられるでしょう。夫はアディクションの治療に行って、そこでNAを紹介された。彼は食事つきの下宿部屋に引っ越してミーティングに通い、私の為に薬物を買って来ていたにも関わらず、クリーンになろうとしていた。三ヶ月がそのように過ぎていき、夫はリラプスし、そしてさらに3年間続けた。

 その頃、私はかつて無かったくらい使っていた。何かを使ってよれよれになっていて、全く好くはなくなっていた。その後に自分が薬物をやめられないことを理解する日が来るまで、ずっと自分の人生をあきらめてた。薬物をやめた人たちが居ること知って、彼らの人生が使っている人たちよりも、そしてもちろん私よりも、明らかによい人生を送っていることはわかっていた。しかしそれは私の人生には起こることは全くなかった。私は変わることができるし、使うことなく違う人間になれたというのに。しかしそれ以上そんなふうにしたいという願望はなくなり、やめる方法を見つけることができなかった。そのため、私は大量に買って、すべて使い尽くした。そして神が私のいのちに入り込んできた。

 その日は週の平日の昼間だったにも関わらず、息子が私の家に立ち寄った。彼自身、なぜ途中下車して家に寄ろうと思ったのか分らなかった。彼は意識不明の私を発見して、まだ息があったので救急車を呼んだ。このときは過去にやったような助けを求めてやった行為ではなく、本気で死のうとしてやったことだった。私は病院で五点拘束をされた状態で目を覚ました。

 私は10日間の任意入院、または期間不確定の強制入院のどちらにするかの選択を与えられた。私は任意の方をえらんだ。その時安堵を感じられたことが大きな驚きだった。私には、問題ないと意地を張る余裕はなかった。私はもうその状況を維持してあがき続けることが出来なくなっていた。私は助けが必要で、それを手にしようと決めた。

 夫が以前にNAに繋がっていて、彼はどうすればよいのかを知っていた。彼は病院にやって来て、私を乗せてミーティングに連れて行ってくれた。そして夫はまた病院まで送ってから家に帰り、私はその後に使っていた。10日が過ぎたときに、家に帰る準備ができた。彼は私がクリーンでいるなら、自分もクリーンいられるだろうと理解していたので、私たちは共にミーティングに出た。それは彼の一日目で、私は十日目だった。

 最初の一年目に私たちは毎日ミーティングに出た。時には2、3回の日もあった。私たちはそれぞれスポンサーを得て、ステップをして、NAでの社会交流のすべてをしてみた。サービスする仕事ももらった。ホームグループを得て、友達も作った。私たちは皆同じ思いを抱えてので、年齢の違いは無関係なことを理解した。

 初めてステップに取り掛かったときは大変ではなかった。無力と生きていけなくなっていたことは自分でも明らかだったので、ステップ1、2、そして3はそれ程難しくはなかった。私はハイヤーパワーによって生きていることがわかった。しかしステップ4は違った。どうしたら46年にも渡る、憤りや悪い振る舞いについて書く気が起こるだろう。誰が、私が傷つけたり、切り裂いたり、ダメージを負わせた人々なのかわからなかった。それが私の身近に居た人々に及んでいたことに気付いた。私たちはより経験を積んだメンバーたちにそのときに自分が何を求めているのかを教えてくれる自分のハイヤーパワーについて話してくれながら、導いてもらった。再びステップに取り掛かると、多くの事柄が目の前にやって来た。それによって前にすすむことが可能になった。

 第8ステップの作業の真っ最中に私は1週間家族のところを訪れた。彼らは私の家と3,000マイル(4,800km)離れて住んでいた。私は速やかにスポンサーと共に第9ステップに取り掛かり、その一週間で私の父と、母、継父の父、兄、義理の姉に埋め合わせしようとがんばった。彼らは皆、私がクリーンで居ることが唯一の埋め合わせだよと言ってくれた。

 人生は良くなった。私は学校に通い、学士号を取って、さらに学位を取得した。そして心理療法の

 実地を始めた。父は私を誇りに思っていると言ってくれて、そんな言葉は以前彼から聞いたことがなかった。

 私がクリーン6年目の時に、NAでの長い経験のある友人が癌で亡くなった。彼の周りのフェローシップが集まり、闘病中の彼をサポートした。ホームヘルパーに加えて、二人のアディクトが彼にずっと付き添っていた。彼のスポンシーの一人が引越してきて、彼の横で寝泊りした。彼は死に向かいながら、自分の経験について話をした。棘の中からバラに成長して言ったと語った。彼は威厳と力強さを持って、クリーンのまま死んでいった。彼はどのようにクリーンで生きるのかを教えてくれて、またどのようにクリーンで死んでいくのかを教えてくれた。

 2年後私の夫が癌と診断された。私の父が癌で死に瀕していて、母は心臓病を患っていた。クリーンになったことで、それが望んでいるかはどうかは関係なく、自分たちの生活のコンディションを整えるための機会が与えられるようになり、それはとてもよいことだと感じていた。私が反応して起こしたことが問題になることはあっても、何が起こっても問題ない。夫や息子を失ったことは、私の第一ステップに対する唯一の疑心だった。

 私はミーティングに行き、自分の疑念についての話をした。私は夫なしでクリーンを続けることは出来ないだろうと恐かった。私は彼なしで本当に生きていきたいのかわからなくなった。私たちは子供たちが成長していくのを見ながら28年間一緒に暮らしていたし、一緒に旅行に行き、アディクションが最悪だった時もお互いを気遣って一緒にクリーンなった。私たちがクリーンになってから、二人の関係は深まり、相互に尊敬しあう無条件の愛情の中に一輪の花が咲いた。彼は私の心そのものだった。私は彼なしでの人生は想像できなかった。

 夫は六ヶ月間病と共にいた。その期間私たちはメキシコからハワイに旅をした。そしてサン・ジョゼのコンベンションに参加した。そこで自分で手を伸ばして助けを求めることを初めて学ぶことが出来た。このプログラムの人々は彼が病気を抱えている時も素晴らしかった。夫のスポンシーたち、私のスポンサーとスポンシー、そしてフェローシップの友人たちがよく電話をくれて、たまに家を訪れてくれた。私のスポンシーの一人は看護婦で、彼女はその時は働いてなかったので、私が出かける必要があるときには、代わりに面倒を見てくれた。愛と思いやりを持った人たちがどんな時も私たちの周りに居てくれた。私のホスピス・ソーシャル・ワーカー(彼女は他のNAの友人たちの看護をしてくれていた)は、NAは他で見ることのない最良のサポートシステムだと言っていた。

 私の父の死を、亡くなった後に知った。私の夫の11日前に亡くなっていたからだった。母をその18ヶ月後に逝った。私は一人ぼっちになってしまいそうで、心から恐くなった。人々を失くした痛みで、私の心を氷のように冷たくなっていくように思えた。私は呼吸ができなくなって、息苦しくなっていくように感じた。たった一つミーティングに行くことだけは頭で考えることができた。私は自分の苦痛について話をした。他の人たちがミーティングで来て私に会ったら逃げたしていくのではないかと思うほど、話をし続けた。私はハイヤーパワーに助けの手を伸ばした。それからの数年間、私は11ステップにとどまっていた。私はある時気付いて、ハイヤーパワーを信頼するようになった。ハイヤーパワーの私に対する唯一つの望みは、人生が与える癒しと成長をくれる機会を活かすということだった。

 それは今でもとても難しいことだ。でも使う必要はない。私はいまでもプログラムに繋がっている。今でも私は毎週6回ミーティングに出ている。私にはスポンサーがいる。ステップをしている。そして多くの女性のスポンサーをしている。サービスをして、文献を読んでいる。私にはスピリチュアルなコミュニティと信念、信頼、私自身を深めて強く成長させてくれる神との関係がある。良い日もあるし悪い日もある。私は未だにクリーンでいるための沢山のことを学んでいる。タフになった時でも、ミーティングに行って、友人に電話したりスポンシーや誰かと一緒に働いたり、または祈りそして祈りまた祈る。私は、自分がNAの中で学んだスピリチュアルな原理をミーティングルームの外でもすべての事柄において実践しようと挑戦することでステップ12を実践している。

 私の人生は満たされている。私は、傷つき弱っていた小さな46歳の女の子を拾って、クリーンで生きる方法を教えてくれたNAに感謝している。



この部屋で最年少のこのアディクトは、今も正しい方向性とのつながりが感じられており、アディクションからの回復とは年齢を超えて結びついていることを理解しています。(P283~P285)


年齢に関係なく     

                             

 僕が始めて話したNAメンバーは自分の母と同じ年の人だった。高校一年生の夏の後から、クリーンになった。僕は数ヶ月間だけ薬物を使っていた。その数ヶ月は僕の人生の中で最悪の日々だった。数日警察に保護拘置されていた間に、学校を強制的に退学させられて両親と一緒にリハビリ施設を見学させられりした。自分には問題があって助けが必要なことはわかっていた。僕が初めてナルコティクス アノニマスのことを知ったのは、自分のリハビリ施設で小冊子を見つけて読んだからだった。僕には選択肢がなかったので、一回行ってみることにした。NAに出て最初に気付いたことは、多くの人たちが自分よりも年上だと言うことだった。それまで自分よりも10以上も年齢が上の人に会うことはまれだった。そこの人たちは僕が生まれる以前にハイになっていた人たちだった。僕が保育所でブロックかなんかで遊んでいたころ、彼らはドラックを扱い、逮捕され、アディクションが発症して深みにハマッていた。その高齢の人たちと自分がどうやったら共通点を持つことができるのだろう?

この疑問への答えがミーティングが始まってすぐに与えられた。自分の母親と言っていいようなNAメンバーが自分に、アディクトですか?と尋ねてきた。誰かが自分に話しかけてきた最初のことで、僕はなんと言って答えたらよいかわからないでいた。なにもいう必要がなかった。ただ何かを感じていた。僕たち二人に年齢を越えてなにかの繋がりがあった。彼女の声、目、スピリットから何かを感じた。そこには以前に感じたことのないような、もう一度感じてみたいと思わせるものがあった。

僕は部屋の一番後ろに座っていた。ミーティングでどんなことが分かち合われたか覚えていないけど、「年齢に関係なく参加できる」という言葉を聞いたのを覚えている。それが自分の耳に残ったことのすべてだった。僕はどこかに引っ付いたり、何かに仲間入りすることに必死になっていて、その言葉にしがみついてミーティングに参加し続けた。人々の分かち合いを聞くごとに、彼らの年齢が気にならなくなっていった。ミーティングの後にメンバーたちと夕食を食べに出かけて交流を深めているとき、彼らは何かを要求することはなく、僕の友人になってくれた。僕がどんなふうに感じているかを彼らに伝えると、自分と同じ年代のアディクトでない人たちからは感じたことのない、自分を認めてくれる反応を返してくれた。

僕はいま大学三年生で、学生特有の変わった生活を送っている。金曜日の夜、ほとんどの学生たちが薬物をやるパーティに出かけていく。僕はホームグループのNAにいく。そして感じていること、取り掛かる必要のあること、そして自分がより良くなるためにどうしたらいいと考えているかについて分かち合いう。いまだに僕はミーティングの中で最も若い人間だ。自分が人生の早いうちにクリーンになる機会に恵まれたことはとても貴重な贈り物だと受け止めている。回復は一生涯のプロセスで、これから先にある自分自身の人生すべてを手にすることができることに感謝している。自分の持つことのできる時間のすべてが必要な時間だ。若い人たちがミーティング場に入るのを見かけたとき、僕は回復はどんな年齢でも可能だということをメッセージとして伝えようと努力している。僕には回復のために必要な、病気が悪化している状態でなかったと考えることも出来る。僕はハードにたくさんの薬物を使っていなかった。僕のそこつきは十分な底に達していなかった。スポンサーは僕にこう言った「君のそこつきはどこであれ、底を掘ることをやめた時点で十分だ」と。メンバーシップは以前何をしていたかに関係ないと言っている。

 僕は若いNAメンバーたちに自分がもらった物を与えていこうと努力している。少年者用トリートメント施設にNAメッセージを運んでいて、自分が貰ったメッセージを返していくことができる機会を与えられたことに深く感謝している。僕が助けの手を伸ばし、若い新しい人たちと話すとき、自分がどこから始まって、いま回復でどのくらい成長したのかを思い出させてもらう。2、3年前に行われた自分のリージョンのコンベンションの中での「若者の回復」という名前のワークショップで話す機会を与えられた。僕は真の人間としてのスピリットを感じて、このサービスに取り組んだ。10代後半や若い大人たちの人だかりを見ながら、ハイヤーパワーの存在を感じた。僕はこれほどたくさんの若いアディクトたちを以前から見たことはなかった。その部屋はまるで大学の大講義室のようだった。そこにいたアディクトたちは僕と似ていた。僕は自分と全く違いはないと実感した。ミーティングの後で、一人の10代後半のアディクトと話をして、彼の話を聞きながら分かち合った。自分が何回ミーティングの席に座って、自分と同じ年代の人や、ずっと年老いた人たちかはともかく、スピーカーが僕の物語を分かち合っていると感じてきたか今では数えられないほどになった。そこにはいつも特別な経験と、スピリチュアルなレベルにおいて、自分に関係のある人たちがいてくれることを知っている。

 ときどき年配のメンバーたちが僕に「君は若くしてクリーンになることができて本当にラッキーだ」と言う。そのとおり僕はとてもラッキーだ、そしてそれは他のすべてのナルコティクス アノニマスのメンバーにも言えると思う。僕は自分自身のことを、幸運な魂の集まりのフェローシップの一部だと考えている。個人的に比べると確かにある意味並外れてラッキーとかもしれない。僕がもし他のNAメンバーと違っていると考え始めれば、ここから出て行くこともできる。そこつきのライン(線)とは、誰かが私たちに加わり、その人が他の人となんら代わりなくこのプログラムの一部だと感じられた時だ。

 僕はいつも自分がたった一人で他のメンバーたちと一緒にミーティングにいた時のことを思い出すようにしている。そのとき外は酷い吹雪が吹き荒れていたのだけど、たまたまミーティング場からすぐ近くのところに住んでいて、僕は歩いていくことができた。そこには僕よりも50歳も年をとった人が一人だけいた。僕はまだ労働する段階にも達していなくて、彼はすでに退職していた。そのとき彼が他の人たちが自分よりも年齢が上で自分が違っていると感じていたという彼の分かち合いを聞いた。その夜、僕たちはお互いの人生と経験について分かち合った。細かいところは違っていても、感情やスピリットは同じだった。要点が明らかになった。僕たちのフェローシップは様々な範囲にわたる経験と、回復中のアディクトであるという、同一性によって成り立っている。




PHD(薬学部)で薬理学(薬物を投与したときに生体に起こる変化を研究する学問)を学ぶ学生だった頃、自らの薬物の知識で、もう少しで自分自身を殺してしまうところでした。彼は20年以上のクリーンと共に教授の職に就いていて、いま回復とは科学ではないことを理解しています。(P286~P291)

アカデミック アディクト


 パトカーから警察無線のやかましい声が、私についての特徴を言っているのがやがやと聞こえてきた。私は凍てつく朝に走って自分のアパートに逃げ込んだ。色が変わるようにジャケットの裏表を逆にしていた。私はある中西部の大学都市の住宅街の裏庭を這っていた。まるで薬物でおかしくなっている、やせ衰えた小さなランボーのように。近所の人に警察を見なかったかと心配して聞いて周り、その目はパニックで落ち着かなくなっていて、ジャケットは裏表反対で、数日寝てない状態だった。近所の人は見ていないときっぱりいったのを聞いて、私は中に入り隠してたものを捨てて、不気味な気配が迫っているにも関わらず、そのまま深い眠りに落ちた。

 午前4時、「警察の声」を人気のない大学構内のバスルームで聞いた。感謝祭の日だったが感謝の気持ちは浮かばなかった。逮捕が迫ってきているという妄想が現実のように感じられて、それが私をパニックに陥らせ哀れな反応をさせていた。私は3日間ずっと、不眠でメタンフェタミンに関連した薬物を静脈に注射していた。オーバードーズが一時的な精神病を引き起こしていた。

 私はこの特別な薬物を自分いた薬学部で専攻していた薬理学科で見つけた。それは私がずっと新しいものを探し続けてきた中で、最新の物質だった。私の学問は空虚な物語に変わっていた。薬物を探すことが個行動の主要目的になっていた。それがまわりにいた仲間の学生やスタッフや教授に知られて、私の奇妙な振る舞いや、どんどん悪くなっていく症状を見て彼らは心配を募らせていた。化学物質が研修室から持ち去られていることに気付かれて、セキュリティの基準が改善された。薬物への欲求は増え続けているのに、手に入れることが難しくなり、自分の効きも悪くなっていった。化学的に引き起こした酷い妄想型統合失調症と呼ぶつもりはないが、使うことで遠い場所との因果関係があったことがあった(?)。薬物が私の人生の中心になってしまっていた。

 「夜の警察の手入れ」は、私が助けを求めるようになる前に経験したそこつきの物語の一つに過ぎない。使い続けた結末は―彼女が手におえないと私を追い出したこと。血の気を失った顔。注射痕だらけの腕や足。日常生活の完全崩壊。私のやる気の源、活力、想像力は薬物を見つけることについてだけ。自分の大学でのキャリアや評判を危険に晒せていること―これらのことから、自分でも明らかに薬物の問題があると感じた。最後に、オーバードーズによる死がやってくるだろうと認めた。それがアディクションが私にもたらす結末だった。自分の怖れや必要なことは、薬物がどんな金額だろうが手に入るかどうかということだった。鍵となる妄想は、自分だけがこんな問題になってしまっていると思っていることだった。自分ひとりで解決できるし、他の誰かが解決出来るわけでもない。孤立がアディクションの道をさらに舗装していって、ほとんど死んでしまうところまでいった。

 私の行動は終に解決へとたどりついたが、想像したものではなかった。バスルームである薬物の効果に逆らって、違うものを注射していた。私は死にかけていて、二人の保護者が僕の死体を見つけたと思って泣き叫んでいた。私は病院に運び込まれて、薬学プログラムをやめさせられた。もし学部の建物に入ったら警察に通報すると警告も受けた。私の理学者としてのキャリアは終わり、私の回復が始まった。

 大学院を追い出されたことは自分に起こった中で最良のことだった。いや、私はすぐに使うのをやめた訳じゃなかった。まだ仕舞いをつけてなかった。だが何かが変わってしまった。その損失と、その他に起こったすべてが相まって、私は自分の問題をどうしようも出来ないということを認めることになった。私は物事の受け留めかたが多分変わっていってたのだけど、クリーンで生きることについては、何も知らなかった。それは他の人たちが私に教えてくれることだった。

 アディクションという病気は社会的、経済的な垣根を越えてすべてにまたがっている。人々がこの病気にかかったとき、薬物が彼らを見つける。途中過程は人それぞれものすごく変わっているが、終着点はいつも同じだ。私は虐待のある家族で育ってはいない。裕福な住宅街で育ち、優れたな公立学校で教育を受けた。私は満足できる家と愛すべき家族を持っていたが、自己破壊的な行いに困っていた。私は才能があり、体も健康で、機会に恵まれていて、友達もいて、物質的にも恵まれあらゆる面でよく支えられてきた。しかし私は普通の人と違っていた。私はアディクションと強く結びついていた。自分の若いときの考えや振る舞いが、何がこういうことになったのかということのヒントになってくれることが今わかっている。

 私はハイになる方法、普通に学校であり得ること、を見つけた。しかし私とってこの体験が重要なことに感じた。最初に酒を飲んだときのことを鮮明に覚えている。それは自分の長い薬物のリストの最初のことだった。私の使い方はコントロールできているように思えたが、高校時代毎日ハイになっていて、なんでもそこらにある薬物をミックスして使っていた。大学時代はハイになるために風変わりで、自分勝手で、危険なことをやっているのが普通だった。学生でいることや、学ぶことが好きだったが、そこには並列していつも連続して使う生活があった。

 自分のアディクトの面は、薬物を見つけて使うことに関して信じられないくらい能力を持っていた。大学院生のとき、私は本当に薬理学に魅了されていた。しかしその選択は「ストリートでの知り合い」なしで薬物に近づけやすくなった。その数年間、致命的なプロセスが本来の正当な利益を奪っていった。実際に使っている道の終点についたときは、だれもが道の脇で失意に落ちている。私の病気の進行は、使うことを続けるために、自分自身を壊して、それを叩き売るバーゲンを何度してきたかということで計ることが出来ると思う。「平日は使わないようにしよう」が「薬物を打つのをやめよう」になり、「じぶんのキャリアは傷つけないようにしよう」になり、薬物自体が自分のキャリアになっているかのように感じていた。私の薬物に関する専門的な学術が自分の回復にとって危険な妨げになっていた。私は薬物に関する自分の知識を、薬物をよりうまく使いこなせるように利用した。いまそれは、弾丸に対する安全性を図るための弾道学のようだったと理解している。私の傲慢さと妄想が私の中にやって来なかったなら、楽しかっただろう(?)。

 私の回復は、自分が薬物を使って困らせていたたくさんの教授たちからの不相応なくらいの優しさと一緒に始まった。教授は純粋に寛大な心から、単純に受けた教育などの傾向から人のことを決め付けない、薬物問題のカウンセラーを見つけてくれた。そのカウンセラーとの最初のセッションで、私は酷い状態で、まるで狂ってしまっていたようになっていて、それが自分のすべてだと思っていた。一方で困惑している脳が変わりたいと欲していた。そのカウンセラーは、私が初めて会う自分のことをアディクトだと名乗る人で、彼はどうすれば薬物なしで生きられるのかを知っていた。それが企みだったのだ。私はもっとそのことを知りたがった。彼は最初に私の信頼を得て、数週間後に罠をはった。彼は「もしここに通い続けたいと思っているなら、他にやらないことがある」といった。なにかのテストのことか?承諾書を読むのだろうか?どこかの医師へと行けということか?いや違った。「ここに来たかったら、ミーティングにも行くことが必要です」ということだった。私はそのことについて、懐疑的で怖れていたが、行ったほうが良いだろうと決心した。なんでも操作しようとするアディクトが、回復中のアディクトによってうまく操作されたのだった!

 ミーティングには、「違いを見つけるレーダー」をもって行き、私はそこにいる群集の一員ではないと思っていて、いろいろな分類の仕方でそこにいる人たちと自分と違っているところを発見するために、レーダーを張っていた。私は傲慢かつ人を裁きながら、相似する点ではなく、人々との表面上の違いに付いてを基礎にした目で見ていた。しかしながら、そこには驚かさせられることがあった。私はステップが使わないためのなんらかの手引きだと思っていた。―「ステップ1:私たちは麻薬を手にしません。ステップ2:私たちは一切なにも注射しません」のように。しかし声に出して読まれる12ステップを聞いたとき、彼らは薬物という言葉にさえ触れていなかった!ミーティングルームにいる人たちは、私の頭によぎったこともなかったような考え方で、クリーンを続けていたのだった。自分の考え方では惨めに失敗してきたので、そこの人たちは違うやり方をして結果も違っているという事実に希望を見つけた。

 回復の経験は稲妻のようだという人も何人かいる。突然閃光のように明確に理解を得て、すぐさま使いたい欲求も失せるというように。このプログラムの効果は、私が例えると、徐々に私の間違った信念を腐食していくような雨や風のようなものだ。これはクリーンで過ごす一日一日がその効果を発揮する。私は自分が治癒できない致命的な病気にかかっていて、その病気にかかったことへの自分の落度はないけれど、回復を続けることは自分の責任だということを少しずつ学んだ。またフェローシップとはアディクションに対して中毒性があり、孤立はリラプスに必要な条件であるということをゆっくりと理解していった。未だに回復について最も役に立つ情報は、頭でっかちな自分の考えではなく、他の人たちから聞く話しだということを心に留めて置くことが必要だ。私は未だに回復の中で、真実に対してもがいてしまうことがある。それはよい行動はすべてを理解するから得られるものではないということについて、そのことは科学者としての自分には納得できないことがある。ときどき何か新しいものを学んでいても、一方で自分はまったく進歩していないと感じることがある。しかしクリーンで居る限り、私のスローペースの回復にはなんの問題はない。プロセスに終りはないから、急ぐ必要はないのだ。

 自分の持つことのできたこの人生は貴重な回復のギフトだ。私は大規模な総合大学の教授をしている。栄光ある、想像性に富んだ、エネルギッシュな大学だ。私はそこで、信頼と尊敬をありがたく受け取って、仕事をさせてもらっている。またNAの内外に長い付き合いの友人たちがたくさんあり、家族たちとは健康な関係を持つことができており、自分が好きなことで生計を立てているという贅沢をさせてもらっている。まさしく神に恩恵を受けていて、それはNAウェイに生きることから得られたことだ。それは私の人生が完璧だという意味ではない。私は問題をもっている。怖れや、フラストレーション、そして低い自尊心との絶え間ない格闘。しかしどんなときも自分がクリーンじゃなくなることはないというイメージは出来る。私はマイクという名前の高校時代の友人のことを思い出す。私たちはとても似たような道を辿っていた。二人とも科学に興味を持っていて、薬理学を修了して、ハードに使って、共に知識が自分を守ってくれると考えていた。しかしマイクは20年前にオーバードーズして死んだ。私の人生はギフトだ。その日あったことがなんであれ、回復のためのものだ。

 「与えていこうという気持ちがあれば、欲しいものが得られる」というのはミーティングルームでしばしば聞くことがある、古くから伝わる言葉だ。私にとって自分が今持ちたいと願っているものに、限らず、すでに手にしている物も同様だ。私のスポンサーは、クリーンな日々はどれもすべてNAのおかげだと私に話していた。だから今日ある回復のために、支払っていこうという気持ちでいる。回復を続けるための代価は同じギフトを他の人々に提供することだ。私がこの道を辿っていく経験がなかったとき、他の人たちが、アディクトやアディクトではない人も、道を探す手助けをしてくれた。彼らはハイヤーパワーの仕事をしてくれた。そしていま、私が他の人々の回復に参加して、同じように手助けする番だ。私がこのように考えるようになって、フェローシップが回復の基礎だということがより明白になった。

 20年以上のクリーンにも関わらず、ミーティング場で違いに焦点を合わせて、自分と人々との距離をとって戦いたい衝動に駆られることがある。しかしいまはそれはNAについての不満を表明したいというただの自分の病気だと思っている。私はいつも私と仲間のアディクトとの間にある類似点を見つけるように気をつけている。しかしそれは私たちがすべて同じだという意味ではない。NAでは、一体性とは画一性ではなく、私たちの間にどんなに違いがあってもそれ以上の比較できるものがないのだ。NAはすべての種類の人でも対応できる大きな家だ。私たちはどんな言語でも話しをすることができるし、どんな政治的志向や、ハイヤーパワーについて考えを持っていてもかまわないし、育ちがどうだったか問題にしない。この多様性の中で、さまざまな人々が集まるグループは成長していく。そこにはいろいろな人がいる。スポンサー、盟友たち、そして信頼する新しい仲間たち。それはどんな人でも回復を可能にするための多様性だ。自分の場所と感じられないアディクトがありませんように。それが象牙の塔(Ivory Tower:英語で使われる比喩表現。社会から離れた夢想家が集まる場所)や見張り塔(Guard Tower:誰かの監視下にある場所?)だったとしても。



 日本でNAがスタートした時、メンバーたちはアディクトには普通の生活することさえできないと信じていました。特に回復中の女性にとっては。フェローシップが成熟するにつれて、このメンバーや彼女に似た人々は「回復中のアディクトのモデルなどいない」ことに気付きはじめます。(P292~P297)


私を幸せにすること    

                             


 私がNAメンバーになり、普通の生活ができるのだと理解するまでに10年ほど掛かりました。私がクリーンになる前、日本では薬物に依存した女性が回復することはとても難しいと思われていた。私は孤独でした。私の家族の誰もアディクションについて何も知らず、私の周りにいる人々でそのことが話しに上がることはありませんでした。NAにおいて女性メンバーでいることは、私にとってはとても特別なものでした。なぜなら私がクリーンになったとき、唯一の存在だったからです。私はアディクトとして、子供を持つことは避けるべきだと言われました。そのときのフェローシップは私が赤ちゃんを産んだとしたのなら、それ以上ミーティングには来ないだろうと考えていました。誰も回復の中で子供を持った経験のある人がいませんでした。いま私は回復とは短い期間の話ではなく、それは一生涯のプログラムと知っています。そしてミーティングにいけない回があるかも知れません。でも私たちはもし毎日ミーティングに行くことができないのなら、使ってしまうだろうと考えていました。私たちにはNAの経験や歴史がなかったのです。

 NAが始まって一年、私たちはAAミーティングに可能な限り通いました。そしてたくさんのメンバーが、私のAAのスポンサーも同様に、「よくも回復する前に結婚して子供をもったね」私によく言いました。それらの初期のメンバーたちは彼ら自身をモデルとしたルールが何もありませんでした。いま14歳になる私の息子は、日本のNAプログラムの中のカップルから生まれました。みんなが彼の成長を見守ってきました。人々は私の夫と私はいつか離婚するだろうと言っていました。私たち夫婦が一緒になって19年になります。私たちの生活は普通です。

 私が20年前にNAのプログラムに参加し始めたとき、そこには約10人のメンバーがいました。東京出身の私たちのメンバーの7人は、大阪の3人のメンバーに会うために特急列車に乗りました。いつも私たちは一緒に行動して、NAメッセージをどう広めてればよいかについて話しました。最初の5年間、フェローシップはなかなか成長できませんでした。私たちは新しい仲間を探す必要がありました。遠くの精神病院にアディクトがいると聞けば、そこを訪ねていき、施錠の扉を越えて話をしました。私たちは病院や施設でサービスワークをこなし、定期的にパブリックインフォメーションをしました。しかし私たちには医師とのコネクションがありませんでした。私の夫は精神病院へいき、アディクトが居ないかを尋ねるだけでした。彼は丘の上にある小さな町へ向かい、精神病院にいるアディクトに話をしました。彼らにはやめる意志すらありませんでした。しばらく経って、病院から来てほしいと連絡がありました。私たちは特急列車に乗って、たった一人のアディクトに会いに行きました。それをやり続けることは私たちにとってとても大切でした。私は精神病院へ行き、その女性のアディクトと一緒にテレビを見ました。何でも良かったのです。NAメンバーとして、もっとたくさんの仲間が必要でした。

 私たちメンバーの人数はわずかだったので、私は完璧なNAメンバーになろうとがんばってたくさんの喜びを感じていたのです。その頃、NAはとても若い男―15歳か16歳の子供―と、年老いた元やくざでした。私がNAきて間もない頃、全身にタトゥが入った蛇皮の靴を履いた男性たちと会いたくはありませんでした。そのうちの何人か怖かったからです。使っていた場所から移ってきたメンバーたちが、スポンサーになることと、ストリートのボスになることの違いを理解できるようになるまでに何年も掛かりました。完璧なNAメンバーがミーティングに定期的に出席するようになりましたが、ときどき女性のメンバーにとって、ミーティングに行くことが本当に恐怖に感じることもありました。

 日本のフェローシップが成長するに従って、私たちはより多くのNA文献を翻訳するようになりました。いったん私たちが日本語でそのメッセージを読むことができるようになると、プログラムはより明らかになりました。私は薬物が私たちの主な問題ではなく、私たちの強迫的な考えととらわれた振る舞いだということにことにショックを受けました。それをよんだ時私は思いました。これだ!これが私がずっと抱えていたことだ。

 フェローシップでの女性はNAメッセージによって意味深い影響を受けます。彼らは薬物を使用した話よりも前に、底を突いた経験について話すでしょう。使うことをやめる時、それは毎日の感情の痛みについて向き合うことを意味します。そして日本の女性アディクトはよく虐待関係を持っています。それは肉体的虐待、心理的、感情的な痛み、それらが人生の一部になっています。多くの女性アディクトは使うことがコントロールできなくなるまで、薬物は良いものだという話を分かち合いをします。私は新しい翻訳が出るまで、このことが理解できませんでした。それらの女性もまた回復という言葉とともに厳しい時間を経てきているのです。日本では、回復とは「使っていた頃の自分にもどる」ことを意味していました。虐待のサバイバーがかつての自分に戻りたいはずがありません。回復のなかで彼らは前進して、成長したいと願います。始めるために何も用意がない人々は、自分の回復のために何も持っていないことに怖れていたのです。私たちが新しい翻訳を読むようになって、日本の女性も世界中のメンバーと同様に同じ経験を分かち合いをすることができるようになりました。

 私たちが分かち合いをするとき、自分のストーリーが他の人々の道を照らします。もし分かち合いをしなかったら、孤独な暗闇にいることになります。そして私たちが分かち合いをするとき、その経験がみんなの経験の一部になりえるのです。多くの日本の女性アディクトはミーティングで性的虐待や、ドメスティックバイオレンスの経験について分かち合います。日本では性的虐待はないとずっと言われてきました。その話を黙ったままでいるなら暗闇に独りでいることと同じです。でもNAの中でお互いに分かち合いをすることで日本でのその常識も変わっていきます。その日本の女性アディクトたちも彼らの物語を話しはじめて、今では現実の問題としてドメスティック バイオレンスや、性虐待について話しています。誰もしばらくの間、そのことを信じませんでした。私自身もそのことが信じられませんでした。

 自分の息子が生まれたばかりのころ、私は家に居て彼の育児のために大変でした。私の夫はいつも忙しく、そして私は定期的にミーティングにいくことができずに決して完璧なNAメンバーとはいえませんでした。10年クリーンで居るために、私が代わりにしたことは家でNAメンバーの電話を受けたことでした。NAメンバーのすべてが私の自宅の電話番号を知っていました。そのため私の家がヘルプラインのような感じでした。典型的な一日と言えば、自分の子供の世話をしながらNAメンバーの電話に出てミーティングがどこでやっているかを教えるといった具合でした。プログラムのサービスをする方法はたくさんあります。定期的にミーティングに出れなくても、私はメッセージを運んでいました。

 その大変な時期に、私はカルフォルニアに新しいスポンサーを見つけました。日本では経験の積んだNAメンバーがあまりいませんでした。そのため私たちにはメンバーを探しながら広めていくためにプログラムの知恵を分かち合える人が必要でした。彼女はしっかりとサポートしてくれて、「あなたを誇りに思う。ベストを尽くしていし。何も罪悪感を持つ必要はない」と言ってくれました。

 私は看護学校で母たちのグループに出会いました。そして子育てについて分かち合いながらお互いを手助けしました。これによって私がNAミーティングをはじめることができるように感じましたが、まだ赤ちゃんと一緒に時間を過ごす必要がありました。私はまた子供の学校の行事にNAイベントを入れてもらいました。彼はいつもNAと共にいて、他の子供たちとのコネクションがありませんでした。いま12ステップをすることは最も大切なことだと知っています。ステップを踏んでいるかぎり、自分に合っている方法で自分の人生を優先することができるのです。

 最近私は仕事上で大きな額のお金を失いました。それは私が経過してきた時間の中でももっとも辛い出来事で、それをどう取り返したらいいのか分かりませんでした。私が信じていたものはバラバラに崩れおちました。自分自身への自信も失い始めました。この辛い経験と、自信の喪失で、私はステップ6と7をはじめました。自分の欠点に目を向けて見ると、強い喜びの感情が湧き上がって来ました。6ヶ月後、私は自分の物語を分かち合いをするアイデアを思いつき、自分を幸せにするものについて書いてみました。本当に幸せに感じることというのは、本当に辛い時期の真ん中に居るときで、私はNAメンバーだということに気付きました。私はこのプログラムで話をする道具を持っていて、困難を乗り越えるためにそれを使うことができる。この幸福をなんて呼べばいいのか分かりませんが、私は困難も幸せにすることができる道具を持つNAメンバーだと思えたのです。

 その乗り越えられないだろうと考えていた大変な時期はまさしくハイヤーパワーからのギフトでした。その時期が終わり、私は穏やかに感じています。私が誤ったときに、自分とハイヤーパワーとのつながりがより強くなると感じます。過ちを犯すことは誤った自身を壊します。ハイヤーパワーは自分が信じるものをはっきりさせるために機会を与えてくれます。私が仕事や私の人間関係で何が成功かということを知っていると考えたとき、私のハイヤーパワーはいつも振り返り、自分の考えの小ささに気付くチャンスと与えてくれます。過ちは私のもっとも大きなギフトです。私はいま完璧になることがゴールではないことを知っています。わたしが初めてクリーンになった頃、過ちは犯さないほうがいいと考えていました。しかし今は何回もリラプスしようが、それでもまたプログラムに戻りベストを尽くそうとする人たちに深い敬意を持っています。

 初期の数年間、プログラムにおいて幸せの意味についての誤ったコンセプトを抱いていました。私たちは「プログラムでの幸せ」とはNAメンバーとしてのよいモデルになることだという意味だと考えていました。最近、私は何年もの間プログラムから離れていて、施設を出たり入ったり、何度も結婚して離婚したある一人メンバーと話をしました。私がこれを聞いて最初は、ハイヤーパワーは間違いのせいで彼を愛しては居ないのだろうと考えていました。一方私は長期間ミーティングに行き続けていて、たった一人の男性だけを愛している。ハイヤーパワーは私のような勤勉なメンバーを愛し、彼ではないと考えました。有り難いことに、プログラムをとおして、このような考え方は私の中で完全に変りました。私は「実際には誰がより幸せなのでしょう?私かあなたか、私たちには分かりません。誰も断言できない」と彼に言いました。

 あなたが何度リラプスしたとしても、NAはあなたを再び歓迎します。それがNAプログラムです。NAはきっとあなたを見捨てません。NAはいつもあなたのためにあります。私は本心から、誰がより良い人生を送っているのか―私がこの20年間なろうとしていた完璧なNAメンバーなのか、プログラムから離れたり戻ったりする人々であるのか、を語ることはできません。私に起きたクリーンは私がただフェローシップと共にいたからです。私は以前薬物から離れようとがんばっていたせいでクリーンでいることができませんでした。私はNAメンバーのモデルとしていられなくなるのではという怖れのためにクリーン居たのでした。私はリラプスを繰り返すメンバーたちと何の違いもありません。私はこのように考えます、ライターのようだと。私はクリーンで居ようと、もがいているメンバーたちにより敬意を感じるようになりました。ハイヤーパワーは差別しないと信じています。回復で最も私を幸せにしてくれるものはアディクトたちが変わっていく姿をみることです。メンバーの変化みて、いつも素晴らしい喜びと驚きを感じます。その変化は何度見ても、いつも私を幸せにしてくれます。



彼がNAプログラムに初めて来たとき、彼の職業履歴や受けてきた教育に関係なく、NAの一員になれることを知りました。彼の物語が載っている第一版のベーシックテキストが出版されてから、彼はクリーンを続けています。惜しくも、彼はこの最新版の出版を待つことなく亡くなりました。(P298~P301)

私はユニーク(特殊)だった   

                             

 私はどこへも後戻りできなくなっていた。誰も自分を助けることはできないし、自分の状況はどの人たちとも全く違ってしまっているのだと感じていた。破滅に向かって、自己破壊という狂気のドライブを続けていて、すでに戦おうとする気も失せていた。自分のことが特殊だと思っていて、実際にナルコティクス アノニマスのフェローシップを見つけるまでそう思っていた。その日から、私の人生は新しい意味と新しい方向性を手にした。

 私は成功を装う白人の中流階級の家で育った。私は学業に優れていて、カルフォルニアとスコットランドの医科大へと進んだ。ドラッグ(drugs)を楽しんでいる学友たちを独りよがりに蔑視していた。私の方が優れていて、賢いのだと感じていたのだ。ドラッグアディクトは意志の弱いやつらだと思っていた。人生の目的も、価値も見出せない意気地のない生き物だと思っていた。私は違う、成りようもないし、そのような罠には落ちることはありえない。私は成功者として人生のゲームに勝っている。そんな大いなる潜在的な野望を持っていた。

 有名な西海岸の病院でのインターシップを始めてから、私ははじめて薬物(narcotics)を経験した。その時私は好奇心だと思っていた。もしかすると「何かより好いもの」を探していたのかもしれない。私が少量のモルヒネを静脈に注射してやると、激痛に苦しむ患者がリラックスしていくことに驚いた。これはまさに私の為のものだ!それから数ヶ月の間に私を取り巻く世界は崩れていった。試しに使用していたものが急速に乱用になっていき、アディクションになった。助けもなく途方にくれ、それはアディクトだけが知り得る刑の宣告だった。

その後まもなく私は神経外科での研修期間が始まってから、妄想を消すために薬物をコントロールしていた。私は精神科医に助けを求めた。私は精神病院に数日入院した。一時的に気分がよくなり、研修プログラムに戻るために、その精神科医を利用した。彼は単純でだまされやすい人だったか、またはアディクションのことを無視していたのだった。彼は快く、私自身のやり方でそのまま進ませてくれた。リラプスするまでの数ヶ月その調子を続けた。自分の考えや振る舞いについて何の変化もなく、リラプスは次のリラプスを招いた。約十年間、このパターンを続けた。私は精神科医や精神病院をまわってみては、その後にまたリラプスしていた。

 クスリが効いている間に行った何件かの外科治療の結果、私は研修医を辞めてくれと頼まれた。そのあとまた違う入院期間を送り、再びリラプスのパターンに戻ってしまった。病院に入院する以外にも、仕事を変えたり、住む場所を変えたり、自己啓発本をよんだり、メタドンプログラム(離脱症状を和らげるプログラム)を受けたり、週末だけ使うようにしたり、錠剤に替えたり、結婚をして、または健康温泉に行ったり、ダイエット、エクササイズ、そして宗教に入ってみたりといろいろ試した。だが一時的によくなってもうまくは行かなかった。私自身の診断書から判断して私は手に負えないと言われて、つまりどこにも助けがない状態だった。

 さらに約5年間重症化した使い方をした後に、薬物の選択の結果、私は肉体的なアレルギーが現れた。とにかくいつも使っていて、注射した箇所の周りの皮膚組織が死んでしまっていた。最初、コーチゾン(アレルギー治療薬)を使ってこの症状を抑えることができたが、再び炎症を起こした。差しあたって、私はステロイドの副作用の案内人のようであった。最後の入院をする時がくるまでに、私の免疫システムは打ちのめされて、肉体的には衰弱してしまっていた。さらに悪いことには、私は総合的にスピリチュアルに破滅したことによって苦しんでいたのだが、そのことに自分で気付いていなかった。否認と自己欺瞞が酷くて、自分がなんとも惨めな生き物になってしまっていることがわかっていなかった。

 私はトリートメント施設に入った。そこで初めて本人もアディクトである医師と向き合うことになった。彼は助けが必要かどうかを尋ねて、また回復する気持ちが少しでもあるのかと聞いてきた。彼は私が社会的財産や、実績、職業、妻や家族、さらには自分の腕さえもなくしてしまうだろうと言ってきた。最初それを聞いて私は尻込みした。自分にとって、薬は何もよいことにならないと気付いていたものの、あの安らぎとリラックス効果は捨てがたかった。だが結局、私は口答えなく彼の話を聞き入れて、言葉に従うと約束した。いつも自分のやり方でやってきたので、そのことは私にとってかなりの変化だった。これがNAで私をおおいに手助けしてくれたタフラブ(tough love)への最初の入り口だった。

病院にいる数ヶ月間、大きな変化が私に訪れた。私は思い切って外のNAミーティングに行ってみた。始めは反感を持っていた。そこにいる人々が私とは似ていなかった。彼らは一般的にいうジャンキーや、ヘロイン仲間(Dope friends)、錠剤バカ(Pill-heads)、ポン中(Tweakers)そしてコカインきちがい(Coke freaks)たちだった。どうやったら彼らと私に関係があるというのか?彼らは私の住んでいるような場所からやって来たわけでも、私がしてきたことを経験したこともないだろう。私が成し遂げたことをしたことも無い人たちだ。しかし彼らの話を聞いたとき、何度も何度も自分の話に聞こえてきたのだった。そこの人たちは、私が感じたような価値観を消失、絶望、堕落など、私と同じ思いを経験していた。彼らはあまりにも救いがなく、希望も無く、私の中にいるような隠れたモンスターによって打ちのめされていた。しかし彼らは自分たちの過去を笑っていて、前向きな目で将来について語っていた。そこには平安を感じさせる何らかの力の働きによって、深刻さと楽観さの間にバランス感が保たれているように感じた。私は彼らの持っているものが心から欲しいと感じていた。

 私は正直さ、寛容さ、受け入れること、喜び、自由、勇気、やる気、愛、人間性についての話を聞くことができた。しかし最も偉大なことは神についての話だった。私には神についての概念についての問題は特になく、以前から自分のことを信者だと思っていた。ただしなぜ神は、私をこんなにも落ち込ませるのか理解できないと思っていた。私の祈り方は子供がサンタクロースにプレゼントをお願いするようなもので、ずっと自分の意思にしがみついていた。もし神の概念が無ければ、私は自分の人生のコントロールが効かなくなり、生き残れないだろうと推論した。そしてひょっとするとそのことが問題のすべてなのでは、という大切な気付きになった。まずは神の意志を高めたほうがいい、それから自分の意思を神の意志に従わせなさいと言われた。今日、私は自分に対しての神の意志を知る為に祈っていて、日々その力が私に運ばれて来て、毎日が順調にいっている。私が一貫して自分の意思と命を神の配慮に委ねたとき、数で計れない神のギフトがあることを知った。

学習すること、書くこと、働くことなどの過程を経ながら、そして最終的に、ナルコティクス アノニマスの12ステップをして生活することが、自分で理解する神との新しい関係へと導く道まで、私を乗せて運んでくれた。それだけが、プログラムが運んでくる変化を呼び起こす力であるといえる。そしてその変化がたくさんのアディクトたちに及んだとき、アディクトであろうがなかろうが、すべてにとって世界がより良い場所になるだろう。

 私がナルコティクス アノニマスに参加して以来得てきたものは、自由に無条件に与えられてきたもので、同じように他の人たちにも与えていくことが私の役割になった。それを実現する方法の一つがサービスだと知った。

 私にとっての特別なサービスの役割は、スポンサーシップを持つという特典だった。以前の自分の人間嫌いの態度を忘れないために、神が様々なバックグラウンドを持つ男たちのスポンサーシップをするために、無限の知恵とユーモアを私に用意してくれた。多くの場合私たちの共通の基盤は、アディクションという病気だった。使用した薬物、人種、社会的地位、性的志向、またはスピリチュアルな信念の違いは、愛なる有益な関係の妨げにはならない。私がここで関係することのできること以上のことをそれぞれのスポンサーシップが教えてくれた。そしてそれは、スポンサーシップという関係の中で私たちが話をすることは「相互通行」のようであり、スポンサーシップは自分の成長や自分自身を知ることに重心が置かれている。昔は恐れいたはずのアディクトたちとの相互作用は、NAのミーティングルームにたどり着いたときには予測しえないほど、私の人生に深みを与えてくれている。

 私はナルコティクス アノニマスのフェローシップの中に新しい家を見つけることができた。生活の中で電話で呼び出されることがあり、それでまだ苦しんでいるアディクトにメッセージを運ぶことができている。本日NAでこのようなことが自分に出来ることに対して、神に感謝している。

 私が違いを見つけようと意識を働かせると、私の病気があなたと私を切り離すことになるだけで、NAの中での回復において「不適格」な自分になる。私はあなた方と自分は同じだという事実を見つけることができた。私はもはやそれ以上でもそれ以下でもない。ナルコティクス アノニマスのフェローシップで本当の愛情や友愛を感じる。私の大きなスピリチュアルな目覚めとは、自分が他となんら変わりないアディクトだと気付いたことだ。私はユニーク(特殊、変わり者)ではない。


(これはテスト翻訳です。ここからさらに世界各国の9名のメンバーの物語が続きます。)

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