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北海道 鉄道残照~失われた鉄道の遺産あれこれ

その15 胆振地方の話題6:日本へ帰還したサハリン州のD51形


1.ごあいさつ

ご訪問ありがとうございます。

ことしからnoteをはじめ、「北海道の廃線跡探訪」なる、国鉄地方交通線廃線跡を主にした記事を投稿しています。

ここでは車輌や遺構のことなど、つれづれなるまま、書いていこうと思います。個人的主観で、なるべく有名でなさそうなものを・・・

今回はサハリンに輸出され、日本へ帰ってきたD51形です。

2.樺太の鉄道

ソ連サハリン州は、戦前日本領(樺太からふと)であったため、日本国内での標準の1067㎜軌間を採用していました。
そのため、蒸気機関車をはじめ気動車や客貨車も日本国内で製造され、さらには国内から樺太へ移った車輌もありました。

3.サハリン州(旧樺太)のD51形

1949(昭和24)年、ソ連のサハリン州へ輸出されたD51形は、第二次世界大戦の賠償と誤認されていました(自分もそう思っていた)が、正式な商取引(輸出)です。

総数は30輛、D51-1~7が日本車輌製造、D51-8~14が川崎車輌、D51-15~20が日立製作所、D51-21~25が三菱重工業、D51-26~30が汽車製造で製造されています

基本的に国鉄のD51と同じですが、先輪はプレート車輪になり、運転室は最初から酷寒地仕様(密閉型)でした。

4.日本に帰ってきたサハリン州のD51形

1990年6月、D51-2・23・25~27のうちの4輛が苫小牧東港に、1と17の2輛は同年9月、小樽港に到着しました。

苫小牧東港に陸揚げされた4輛のD51のようすが、新聞で報じられています。
ここでも「交通博物館によると」として、「戦後賠償の形で」「戦後賠償物質として」などと書かれています。
当時は交博でさえも、誤認していたことがわかります。

この記事にはサハリンへ仕事でいったおりに、放置されていたD51を偶然発見した2人が、当局と交渉し5輛(機関車番号は記事にない)を譲渡されたと記されています。

「会社の前に展示するほか、日高管内平取町びらとりちょうの鉄道記念公園にも設置する」計画とあり、これが富内とみうち振内ふれない駅にあるD51-23にあたるのでしょう。

小樽港第二埠頭での陸揚げを報じた新聞記事には、D51-1とD51-17とあります。
札幌の旅行代理店がソ連から無償で譲り受け」とあり、ここでも、「第二次大戦の賠償品として」と書かれています。

5.その後のサハリン州のD51形

翌年2月には、D51-1は旅行代理店(=タイムス観光)が柏崎市へ寄贈D51-17は別海べつかい町旧標津しべつ西春別にししゅんべつ駅に保存される予定が、状態が悪いために断念、いまだに引き取り手がなく、埠頭に放置されていると報じられています。
結局17は小樽港で解体されたのではないかと思われますが、それに関する記事は見つけられませんでした。

柏崎へいったD51-1については異説もあり、「柏崎市出身で北海道交通の社長、柴野安三郎氏が・・・ロシアから買い戻し、柏崎市に寄贈」とあります(下記HP参照)。


D51-23は平取町の旧富内線振内駅に保存
27はおそらく17の代わりとして別海町へ25・26は、鵡川むかわ町の国道235号沿いの空き地に置かれていました
その一隅に現場事務所があったので、写真を撮らせてもらいました。

まだ状態のよかったD51-25 動輪に赤い塗装が残る 1990年7月撮影
D51-25の銘板 1990年7月撮影

細部を観察すると、日本では考えられないような部品の取付方や、修理の仕方など、実用一点張りというか、あまり細かいことにはこだわらない、ロシア人気質の一端を見た気がします。つまり、走ればいいべやということでしょうか。

動輪などに残る塗装もソ連の蒸気機関車らしく、これは後述の西春別駅に保存されているD51-27で見ることができます。

煙室扉にはクリートがつけられ、テンダーには日本の自動連結器ではなく、ソ連の標準連結器だったウィリソン式?がついていました。
D51-27のように、この連結器と普通の自連は連結できないようにもみえますが、サハリン州では支障なかったのでしょうか。

すでに荒れていたD51-26 1990年7月撮影

翌年には整備途中でもあったのか、テンダーが切り離され、ヘッドライトやテンダー後面以外のナンバープレートも外されていました。

このときは、25・26とは別の1輛があり、車体の特徴から、おそらくD51-2だったのだろうと思います。

D51-2? デフにロシア語の銘板? キャブ天井に明かり窓? 1991年4月撮影
テンダーの連結器 1991年4月撮影

ネット上の情報などによると、その後は元どおりにされ、D51-25は保存ともいえる状態にまで整備されたようですが、2輛とも次第に荒廃、2007年には解体されてしまったそうです。

D51-2は平取町の国道237号沿いに移動、何度か見かけましたが、ナンバープレートやテンダーもない状態でした(写真は下記)。

6.まとめ

日本へ里帰りしたサハリン州のD51形7輛のうち、1は柏崎市で保存後、2011年に解体2は平取町で放置後解体、17は状態が悪いため保存中止となり解体、23は平取町の旧富内線振内駅に保存、25・26は保存されるも放置後解体、27は17の代わりに?別海町の旧標津線西春別駅に保存と、三者三様の運命でした。

旧富内線振内駅のD51-23 2017年9月撮影
同 前後とも普通の自連 2017年9月撮影

旧富内線振内駅については、こちらもどうぞ。


25や26と同じ運命だったかもしれなかったのに、17の代わりに?旧西春別駅で保存されることになった27は、幸運な機関車でしょう。

旧標津線西春別駅の鉄道記念公園に保存されているD51-27 2011年8月撮影
同正面 煙室扉にクリートがない 前後ともウィリソン式?自動連結器 解放テコが下作用 2021年6月撮影 
左がD51-27のウィリソン式?自動連結器 右がヨ4642の普通の自連 連結不可? 2021年6月撮影

今回はこのへんで。

おしまいまで読んでくださり、ありがとうございました。

ご意見・ご感想、そしてご要望など、どうぞお寄せください。

次回は、王子製紙苫小牧工場専用鉄道(王子山線)の保存車輌です。

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