作品から読み取る「HSPの世界」


楳図 かずお

庵野 秀明

古谷 実

デヴィッド・リンチ

鴨川 つばめ

諌山 創

伊藤 潤二

まぁこの辺の人たちに共通するのはマゾヒズム
(諌山先生はちょっと違うか?)、
及び、人間の怪物化だろう。

今これを書いている自分を含め、
HSPはヒト以外の視点から客観的に他人を観ているという事だ。

楳図かずおの視点では子供から観た大人を怪物化する事が多い。

楳図作品から読み取れるのは、
人間というのが奇行を当たり前の様に行うという事だ。
まことちゃんでもギャグのベクトルで人間の違和感を描いているが、
当然だがギャグと恐怖は当然リンクするのであって、
この辺を明確にしたのはやはりサム・ライミの「死霊のはらわた」だろう。
あれが起点になってホラーの質も変化したハズである。

また同様に古谷実も結局は人間を掘り下げていくうちに嫌悪へと流れた。
人が綺麗ごとの建前を駆使して動物以下のクズ行為を行うのを知ってると。
稲中では前野という主人公は徐々に悪人として描写されていき、
人として踏みとどまろうとする井沢の葛藤を描いているのが面白い。
「僕と一緒」では人間の業を描き、子供は大人の理不尽に敵わないと、
悪意に満ちた大人と奪われ続けた子供の対比を描いていた。

伊藤順二は描写を大げさに盛ったホラーを武器に名を上げたが、
美しい富江は化け物であり、強欲さのアイコンが美女として描かれる。
結局彼らも人間という化け物と一緒に生活しなければならないのだ。
表情からなんから全部観察し、中身が何かを分析してるワケである。

羊たちの沈黙でレクター博士は自分の同類と見なしたヒロインを助けるが、
有象無象のアニマルと見なした悪人は躊躇なく食っている。
彼は個々の肉体の中身に何が入っているかで人を選別していたのだ。
魂の色で選別していたのなら、昔のメンタリストは食われなかったろうが、
今のメンタリストはおそらく脳みそ食われてしまうだろう。
これは暗記アニマルに食われた本当の人間たちへの鎮魂だろうし、
HSPを迫害してきた権威主義者へのリベンジを描写していた事になる。
つまり「かっこうの巣の上で」のアンチテーゼ、逆転現象を描いたと。
マイノリティのHSPが食われる側から食う側へというプロットだ。

HSPとは洗脳されにくい、自己判断力を維持したまま生まれた個体だ。
それが「スターシード」と言われる宇宙人説につながると。
霊格とか言い方は様々だろうが、ちょっとは普通と違うんだろう。

おそらくこれ、依り代とした肉体というよりハイヤーセルフの違いであり、
多重人格者の一部は一人に複数のハイヤーが入った状況の様な気がする。
複数の精神体が一人の肉体をシェアしていると多重人格になる気がする。

またHSP視点からだと洗脳された人間は無自覚な異常行為を行うのであり、
大人になるほどにそれを一般常識として刷り込まれている。
それがHSPからすれば異常であり、怪物に観えるのだ。

確か稲中にはトレンディなパブロフの一人も出てこなかった気がする。
あの時点の世間とは切り離された世界観で描いていた。
古谷先生も作られた価値観に違和感を持っていたのかもしれないね。

刷り込まれた一般常識がHSP目線では常識ではないという事。
異常であればいかに浸透した常識であっても「異常でしかない」

「おかしいものはおかしい」からだ。


頭のおかしい無垢の巨人の徘徊する世界が現世である。
トリクルダウンが起きなければ日本は衰退し続けるだろうし、
放置されるマッチポンプ利権、是非の逆転、逆柱。
内弁慶の共食い社会、皆が皆、破滅を望んでいるとしか思えない。
欲ブトラー達の行動の異常さ、頓珍漢な詭弁、屁理屈、扇動。
まるで自分が被害者であるかのような猛烈アピール。
純粋に相手を選んでヘイトを向けているなら、本質は真逆。
そういう事ができるかどうかは2極だろう。
時たま奇行種も混ざるが、一方はカニバリストに違いない。

HSP視点の「洗脳された人間世界の日常」は好奇心と恐怖だ。

日常に多くの疑問が存在し、それを観察、分析しながら生きていく。
諌山創も人間を巨人としてデフォルメして描くのは同様だし、
また、正気を維持した正常な人間を主人公側に敢えて集めている。
正常と異常、主体と客体、個人と群体、人間とケモノ。

HSPは常に「巨人の脅威」にさらされる。


カルト洗脳された権威主義者は作品内で「無垢の巨人」として描かれる。
有象無象の巨人たちは笑顔のまま平然とおびえる他人を食らえるのだ。
これが最近「9割のバカ」と言われる魂の無いマジョリティの正体だ。
洗脳されてニヤケ面のサディストは共食いモンスターそのものである。

あの岸田文雄がすっとぼけた表情で悪政を行えるのも「無垢」ゆえ
一般論によるカルト洗脳された権威主義、暗記人間の特徴であり、
学歴社会、流行等の強いられた外部の価値観にコントロールされてきた、
主体性つまり「魂の無い人間」だからこそできるのだろう。

自分の言葉を持たない彼らには整合性、根拠、つまり「論理が無い」
知識で知性を得られると勘違いした「無垢」の巨人の正体であり、
またゴールディングの小説「蠅の王」でいう「イノセント」の正体だろう。

知識で飾ったポリゴン人間はカニバリストと同義である。

人間ていうモノはどんなに頑張って知識を得ても知性は得られない。
ロジックという軸は絶対に人間の外部に存在しないのだ。

これが「神」であり、「精神」の正体だろう。


外部から得ただけの知識で人は絶対に成長しないのだ。
だから愚民化洗脳である学歴主義者の精神は未熟な幼児のまま、
大人の肩書を得て取り返しのつかない罪を犯してしまう。

感想文にあらすじを書いてしまうなら、おそらくその中身は幼児である。
どんなに年齢を経ても、その中身は成長していないという事。
そんな幼児、或いはアニマルたちによって重要ポストが占められている。
つまりバカになるほど有利な社会。

日本社会の正体がこれだ。

岸田政権は現在、原始宗教における偶像崇拝と生贄思想で出来ている。
つまり、今の日本政府は「悪魔主義政府」という事に直結する。

現在の日本社会は戦後から刷り込まれたマインドコントロールにより、
ゴールディングの小説「蠅の王」の世界観を完全再現している事になる。

「蠅の王」の世界の中での少数派である主人公側はHSP、
HSPを狩るイノセント化した少年たちが洗脳されたマジョリティである。
同様にデビルマンの牧村ミキの生首を掲げた群衆こそが権威主義者だろう。
洗脳された中央値は知性を喪失したイノセント、つまり「無垢」。
そして無垢というのは無責任という事であり、愚民国家の正体だ。

庵野秀明とデヴィッド・リンチの共通項


これは印象深い共通点がいくつかある。

まず「ツインピークス」と「シン・ウルトラマン」の主人公はそっくりだ。
彼らは人類を客観的に観察し、何者かを分析しているのだから同じ。
スターシードの名の示すように彼らは異星人目線である。
ああいうのはパクったというより、ナチュラルに共鳴した気がする。
エヴァはツインピークスを意識したと思われるが、結局2人は同類だろう。
スターシードの価値観を生まれつき共有している気がする。

言ってしまえば、心理学者や芸術家、発明家なんてのも同類である。
つまりそういう人種は無理になろうとしてもなれないという事だ。
当然だが承認欲求と観察力は真逆のベクトルだからだ。

内側と外側。


これ、結構わかりやすい。
その為一見目立たない人ほど周りが観えているという事に繋がり、
声が大きく衆目を得ようとワザとらしくアピールがつよいなら、
彼らは権威主義者のポリゴン度合いが強い、見栄っ張りという事だ。
大河ドラマ新選組の似非軍師が露骨にそれを描いている。
(これは他記事参照。)

デヴィッド・リンチのモチーフはおそらく「見世物小屋」かと思ってる。
彼の畸形へのこだわりから透けて見えるのは、
人間が特別なのかただの動物であるのかというラインかもしれない。

それゆえエレファントマンは畸形にも拘らず人の精神を主張する。
つまりジョンメリックは肉体は怪物であっても人間なのだ。

では何が怪物なのか?

確かイレイザーヘッドでは畸形の女が笑顔で胎児を踏みつぶしていた。
これはおそらく怪物として描かれた畸形だろう。
人の心を持たず、笑顔で胎児を踏みつぶせるならモンスターに違いない。
彼女は堕胎者のメタファーという事か?
(リンチがどんな子供時代を送ったのか、何を観たのか知らないが。)

そして同じ畸形であってもジョンメリックならこんな事はしないだろう。
何故なら彼は「人間だから」だ。

リンチも庵野も人間をグロテスクに描きたがる。
子供の頃初めて観たデューン・砂の惑星で、
敵の貴族は体のプラグかなんか抜かれて、血かなんかが漏れ、
横にすっ飛んでいった記憶があるが(うろ覚え)、
この描写のグロさと、
不思議の海のナディアにおける、ナディアの兄貴がロボットにされ、
ズルズルと太いケーブルを引きずって表れたニュアンスは同じに見える。
その後ナディアの兄はケーブルのコンセントを抜かれて停止するのだ。
こんな描写はデヴィッドリンチそのものではないか?

あの儚く美しい綾波レイは子供時代に悪意に満ちた暴言を吐き、
更には巨大なモンスターへと変貌する。
人の二面性を最大のヒロインイメージを崩してまで描いている。
芥川龍之介の羅生門が如く、どうやっても人間はグロいのだ。

庵野秀明はエヴァンゲリオンで観客席の映像を流したが、
あの群体化した観客というのも彼からすれば異質なのだろう。
デヴィッド・リンチも似たような感覚を持ってるだろうし、
古谷実、伊藤順二、楳図かずお、諌山創、まぁみんな多かれ少なかれ、
こういう視点で周囲を観ているハズである。

数十年間自分をストーキングしているフレネミーの一人は、
まるで自分がHSPであるかのような作品を作っているが、
権威主義者のファッションなんて、コチラからは見え見えである。
労力は認めるから、ヘイトを扇動するのはやめていただきたいものだ。
あんな権威主義者の俳優はどんなに頑張ってもHSPになる事は出来ない。
彼とは苦しみも喜びも何一つ共有できないし、関わると引きずり込まれる。
ああいうのは「蜘蛛の糸」の亡者である。

※今回もつらつらまとまりが無いですが、
ひょっとしたら修正します。


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