ジャニー氏性加害疑惑と報道〜なぜ日本のマスコミはBBCに負けたのか②
1 前回の補足
ちょっと前回の記事で考慮すべきことが考慮できてなくて書き足したいことがあるので書いておきます。
まず、前回自分は事実認定の困難さという観点を中心に書きましたがちょっとこれは本質を外している気がしてきました。
メディアによる忖度という線をもう少し考えます。
まず、ジャニーズ事務所に対する忖度は考えにくいなというのは前回述べた通りです。
民放はタレントを使わせてもらう経済的利益はありますが、新聞社にはないので。
一番大きいのは性被害というのもに対する見方が当時と過去では違うということではないでしょうか。
ある種の暗黙の了解があったというのが妥当なところかも知れない。
性被害に対する報道というものは近年かなり増えていると感じます。社会の関心も大きくなっています。
正直20年前の文春の民事裁判の判決が今あったら相当社会を賑わせたんじゃ無いでしょうか。
ただ、それは社会的関心の変化があると思います。
当時はそこまで関心があったかは微妙です。しかも男性に対する性被害です。そんなものがあるのかという受け取り方をされてもしょうがないでしょう。
今と過去では価値観が違います。
刑法の性犯罪に男性が含まれるようになったのも最近の話です。
最近ではMeToo運動だったり、聖職者による男児への性的虐待が大きく報道されたり、主に海外の流れを受けて性被害に対する認識が変わりました。
BBCがこの問題を取り扱ったのも海外の性被害報道の盛り上がりを受けたものと言えるでしょう。
そう考えると文春の報道と2002年の裁判はかなり先進的なものでした。
社会の認識を変えるきっかけになり得るものだったと思います。何年も時代を進めるチャンスでした。
裁判では事実認定が主に争われたようです。
それに加えて、公共性、公益性、つまり報道することの意義があることも認定していたはずです。それがなければ事実というだけでは名誉毀損になるはずなので。
そう考えるとこの裁判は事実認定ということに加えて、性被害を報道することの意義についても考えさせられるものだったと思います(判決文入手できてないので詳しくは書けませんが)。
この裁判はチャンスでした。
このチャンスを逃してしまった。そこは反省するべきです。
2 裁判報道の意義
裁判は決着ではないと私は思っています。
もちろん当事者にとっては決着ですが、社会にとっては学ぶきっかけです。
裁判とは事実を明らかにする場所です。
だから事実が大量にあります。
議論とは事実を前提にしなければなりません。そして事実というものを知る上で裁判ほど事実が明らかになるものはありません。
しかも議論は尽くされています。
当事者が徹底的に議論する場所です。双方がありとあらゆる主張を尽くします。
学べないはずがありません。
最近では同性婚が認められないことが違憲という判決が出ました。
ですが、社会的議論のきっかけにできているとは思えません。
その後の官僚の失言の方がよっぽど社会を賑わしているのを見ると違和感を感じざるを得ません。
裁判を踏まえてさらに議論を進めるという手法を求めたいです。
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