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人と人との間/仏教

人と人の間と書いて人間と

教えて頂いたことがあります。

人は1人では絶対に生きてはいけません

私は何でも一人でやれるんだという方も

いるとは思いますがそれは不可能なのです。


お米や野菜を作る農家の方や

牛や豚を育てる畜産業の方

魚を捕る漁師さん

それを加工するお肉屋さんやお魚屋さん

配送する方

食材を使い料理する料理人

一切の家事をする主婦の方

家を建てる大工さんなど

挙げたらキリがないほどこの世は色んな人に

支えられ生きています。


これを同じ時間帯に一斉に一人でやれと

言われたら誰も出来ません

やはり人は1人では生きていけないのです


そして何より

今こうして体を頂いたのは

両親のお蔭です

だからこそ感謝し謙虚に生きれると思うのです。


その心を真心と言うのではないでしょうか

真心と真心の交わり合い、溶け込む一体感こそ

この世の正しい姿、平和と言えると思います。


こういう見方を仏教では

正しく見るという事なのですが

それを諸法無我と言い

これが本当に大切な事であります。



旧Twitterを見ていると在家仏教徒が引リツして

晒し者にして否定する輩がいます

対して悟ってもないのに思い上がって人を

避難する者を仏教では増上慢と言います

法華経の中には教えを広め修行してるものを

そうやって馬鹿にし見下すような仏教徒が

書かれています。

まさにその方はこんな人でしょう。


二乗根性で瞑想してるだけでは

己の心の清らかさだけを得るだけであって

周りはそれでは幸せになりません。

お釈迦様は己の清まり救われを望んで
出家されたわけではありません。

この世の苦から皆が救われる為に
何かも整った環境を捨て
妻とも離れ
生まれたばかりの子供と別れてまで
この身を捧げて命懸けで出家され
大いなる放棄をされたのです。

たかだか
己の幸せだけの為に出家されたわけでは
ないのです。

瞑想し心が清らかなはずなのに

何も知らない無知な人を避難するその心‥‥

その方の瞑想の効果は如何ほどなのか?

疑問は募るばかりです。


そんな人を見てるとただ自分がこれだけの事を

知ってると自惚れて主張してるに過ぎないのです

やはり主張ではなく相手は知らないのだから

大切な事をお伝えさせてもらって

上記の様に支え合って清々しく生きてもらいたい

とそんな気持ちでお伝えをさせてもらう事が

何より大切ではないか

それが本当の慈悲なのです


そうして

良い方向に向かってもらう変化を諸行無常と

言うのです。

悲しい事だけが諸行無常ではありません。

これも正しい見方なのです。



公の場で人の恥を晒すなど恥知らずであると

私は思います。


わからなければ優しく教えてあげる

悲しい人がいたならば優しい言葉をかけ

話を聞いて同じ思いになる

苦しんでいるなら解決策を共に考え

教えてあげる。


これを仏教では布施と言います

相手に施しをする事で相手との心が合わさった

温かいものが生まれて来ると思います

これが布施の素晴らしさです。


布施はお金だけではありません

献金して自分の団体を維持する為だけ

己の役職を保持する為

そうやって私利私欲を満たす阿呆な宗教団体には

見直すべき点であると思います。


人と人との交わりが 人と人との間に

温かい慈悲の心が芽生える

そんな環境、社会になれるように

日々私から努力していきたい

そんなふうに思っています。


本日も最後まで読んで頂き有難うございました


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