インドとの友情、今度は日本の番だ!

インパール作戦

これは今から振り返れば終戦の前年、日本はかなり追い詰められていた時に決行された作戦である。
無謀とも言われるが、一説によると、インドに起きた飢饉でチャンドラ・ポーズから日本へ支援を要請し日本軍が食糧を運ぶ作戦だったとも言われている。

その悲惨な結果だけに注目されているが、本当はこんなことが起きていた。

靖國神社に備えているパンフレットから。

昭和16年12月8日、日本は米英に対し戦布告し、大東亜争に突入した。開職初期、日本はハワイ真珠湾、マレー、シンガポール作等で職果を挙げたが、昭和17年6月のミッドウェー海戦において、航空母艦の大半を失い、その後戦況は逆転の様棚を呈してきた。
その時、イギリスの植民地支配からの独立を願い、チャンドラ・ボースが日本に支援を要請してきた。日本軍はインド国内の反イギリス独立勢力の支援と、混迷する戦局の打開を計るべく、第33 師団「弓」、第15師団「祭」、そして第31師団「熱」の三コ師団によりインド国内の要衝インパールの奪取を目指した。
作戦はこの三個師団の他に、チャンドラ・ボース統率下のインド人志風兵一万五千人からなるインド国民軍(INA)も勇参加した。
3月から始まった作曲は、河幅600Mにも及ぶチンドウイン河の奇襲渡河、そして2000mのカラカン山脈の峻険を越えるという最初の難関を克服し、「弓」の進撃にあわせ、「祭」の挺進隊はミッションを占領、インパールコヒマ道を遮断、さらに「烈」もコヒマを占領し、コヒマ、モイランそしてインパール周辺にまで日本軍は進出した。
インド国民軍も「烈」と「弓」の両兵団と行動をともにして、コヒマとモイランに進出。
遂に念願のインドの三色旗をインド国領土内に翻したのである。

しかしイギリス軍の抵抗は極めて頑強で、戦線は膠着、更に空輸により減な補給を行い、仮波を加えてきた。日本軍は食料弾薬ともに杜絶し、その消耗が極限に達した雨季の6月、ついに撤退を余機なくされた。連日の家雨の中の惨僧たる撤退は日本軍に多くの戦死・戦病死者をだすこととなった。

戦後イギリスは「インパール作戦に参加したインド国民軍は、イギリス皇帝に対する反逆者」として、3名の将校を形に処そうとしたが、このことがインドの民来の怒りに火をつけた。抗議運動はインド全土に広がり、いたるところで官憲と衝突、流血の惨事となった。
特にイギリス海軍所属のインド人乗組員の一斉反乱が与えた影響は大きく、遂にイキリスも事態収拾困難と考え統治権を譲渡、相当の年月がかかるであろうと言われていたインドの独立は、パキスタンとともに戦後わずか 2年後の昭和22年8月15日に達成されたのである。
それぞれの国と家族を思う純粋な心と信念をもって戦った。日本軍とインド国民軍(INA)の英霊を私たちは忘れる事はできない。

太陽の光がこの地上を照すかぎり、月の光がこの大地を潤すかぎり、夜空に星が輝くかぎり、インド国民は日本国民への恩は決して忘れない。
P • N• Lekhi
(インド最高裁弁護士)

インドと日本は永遠の友である。

インドはサンフランシスコ平和条約署名を拒否している。日本の責任追及を拒否し、翌年日本が主権回復したその日に個別に友好条約を締結したのである。

モディさんは安倍晋三暗殺時、国を上げて喪に服し、国葬に日帰りで参列してくれた。

翻らなければ相手は退く。日本精神はまだある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?