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ペンでこすった聖霊降臨、あるいは「言語依存症」からの脱却の必要性

タイトルはわかりにくいので説明しますと、昨日(5月19日)は、2024年の聖霊降臨祭だったらしいんですが、聖霊降臨祭は「ペンテコステ」というんですね。

で、「いくらペンでこすっても聖霊は降臨しませんね」というダジャレを思いついたことがありまして。

あ、つまり、頭の中で考えた言葉を、紙をペンでこする、つまり書くことによっては、そこに聖霊の思考は宿らないよ、という、大変ふかい(深いんですがプライドの程度によっては不快ですね)ダジャレだったりしますm(_ _)m

ちなみに、「ペンテコステ」はギリシャ語で「50番目(の日)」という意味だそうで、つまり英語だと「the fiftieth (50th)」みたいなことのようです。

で、別に合わせてきたわけじゃあないんでしょうけど、アメリカ合衆国の州の数はなぜか50だったりしますし、はたまた四十九日とは一日違いなのはこれいかに、みたいな。

49 = 7 × 7 で、これはまあ、割ときれいな印象があるんですが、50だとどうも、十進法的にきりがいいという感じです。

(ちなみに、四十九日というのは数えはじめを「1」とする数え方、つまりいわゆる「数え」でのことで、現代の数え方では数えはじめを「0」とするため、四十九日は「48日後」になります)

ああいう祭りとか記念日とかは、人類意識の中に一つのサイクル性をもたらすのかもしれませんね。

たとえグレゴリオ暦に意味を感じていなくても、元旦には何となく気分が改まるような気がするのも、それですし。


さて、いろいろと経巡ってきてつくづく感じるのは、現代人はどうやら、ほぼ完全に「言語意識」の中に閉じこもっているようだ、ということです。

これは病状として捉えると、現代人は大なり小なり「言語依存症」を呈している、ということになります。

例えばですが、どんなことも言語的に認識しなければ気が済まず、言語によって認識できなければ不安になったりするのが、その「症状」の一つです。

あるいは、言語的に認識できさえすれば、なんか「わかった気」になったり、あるいは、言語的に表明できないのはわかっていないからだ、と判断を下したり。

これは、アルコールによる酩酊状態と、実は共通するものがあるんですよね。

あるいは、何らかの催眠や暗示など、つまりマインドコントロールにかかっているような状態というか。

こうした状態は洗脳と紙一重ですが、洗脳は暴力性に立脚していて、本人の意思は基本的に否定・否認されたり抹殺される、という違いがあります。

それに対して暗示や催眠は、合意のもとになされるようです。

ですが、洗脳ほど暴力的でなくても、「合意なき催眠や暗示」もありますから、そのあたりのことを指して「マインドコントロール」というようになったのかもしれませんが、概念的分類はこの記事の趣旨ではないので、詳しいことはその道の専門家に譲ります。

さて、アルコール依存症に陥っている人は、そうではない人と「しらふ」の感覚が異なっているようで、アルコール依存症に陥っている人は、どうやら、適度な酩酊状態でないと自分は「しらふ」だと感じることができなくなっている、というような感じのようなんですね。

つまり、体内に常にアルコールがある状態に適応する、つまり依存形成するために、「どういう状態を「よい」とするか」というベーシックな感覚、言い換えると「心の体質」自体が変化してしまっているというか。

さて、たしか摂食障害の方の発言だったと思いますが、「冷蔵庫は裏切らない」という「証言」があるんですよね。

(残念ながら検索しても出てこなかったので、出典が分かりませんが、わかり次第ここに記載します)

これは、「他の人はいざというときに裏切るけど、冷蔵庫だけは、自分が何かを食べたいと思ったらちゃんと食べ物を提供してくれる、だから、ただ冷蔵庫だけが私を裏切らない」というような感覚だったと記憶しています。

ま、強いて言うならば、この感覚には、もし冷蔵庫に食べ物のストックがなければ、冷蔵庫ですらも「裏切る」と感じるかもしれない、という「脆弱性」がある、ということになりますが、それはさておき。

この発言をした方が摂食障害だったのか、また別の何かだったのかももう記憶していないのであれですが、この方の「病名」は摂食障害というより、あえて言うならば「冷蔵庫依存症」ということになるのかもしれません。

で、まあ、つまり、アルコール依存症の人はおそらく、「アルコールは裏切らない」という感覚なのではないか、ということです。

ですが、これだけでは病的な依存症にはなり得ません。

なぜならば、適度にほろ酔い状態で満足できれば、それは依存症には違いなくても、病的な依存症ではないように感じるからですが。

では、なぜこれが病的な依存症になるかというと、おそらくですが、アルコールに対する耐性のため、「もはやアルコールですらも自分の期待に応えてくれない」という状態であるにもかかわらず、しかしアルコール以外に自分の「よるべ」となるものが存在しないため、「あの素晴らしい酔いをもう一度」として、「酩酊再現」というノスタルジックな目的で次第に酒量が増えていく、という感覚なのではないか、というわけです。

(5月24日註。上記「あの素晴らしい酩酊」を「あの素晴らしい酔い」に変更)

この辺りで、ここでいう「アルコール」を「洞察」「言語的理解」などに置き換えると、それでほぼ言いつくしてしまっていますが。

ま、上の文章はもうね、洞察がてんこ盛りなため、あれを理解しようとしただけでも軽い酩酊状態になる人もいるかもですが(笑)。

ただしそれは、私が酩酊状態だからではありませんよ(笑)。

ですからスピノザ自身が「神に酔える哲学者」だったわけではなく、スピノザの哲学を学んでいると、彼の洞察のオンパレードに、学習者が軽い酩酊状態になるため、あのようなニックネームが付けられた、のかもですが。

スピノザ(すぴのざ)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)

というわけで、「言語依存症」からの脱却の際に味わう「離脱症状」は、例えばですが、禅でいう「魔境」がそれに該当するようです。

あるいは奇跡講座でいうならば「実相世界への橋を渡る」というものですね。

日月神示ですと「グレンとひっくり返る」というような表現がありますね。

つまり、「言語認識の中の世界」は、実際の世界(ラカンの言う現実界)に対して「倒立像」となっていて、そして人は通常、その倒立像の方を「現実」だとしている、というわけです。

ただし、こうしたことが何か「いけない」とか「問題だ」ということではありません。

これは、言ってみれば二足歩行がおぼつかない子供が歩行器を必要としたり、あるいは自転車に補助輪をつけたり、あるいは「移行対象」として手放せないもの、というようなものであり、その段階への固着が依存症と何か関連があるからです。

ですから、アーサー・C・クラークのSFのタイトルじゃあありませんが、人類はようやく「幼年期の終わり」を迎えつつある、ということなのでしょう。

「問題」は、幼児が歩行器を必要とすることと、老人もまた「杖」を必要とするようになる、というところが、人類意識においてはいわば「量子重ね合わせ」状態となっている、ということなのかもですね。

ではでは~。
















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