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松柏の人。世界を変える



ただいま戦争中


私がお世話になっている方々のうち、四捨五入すると90歳にもなられるおばあさん先生がおりまして、先生が仰るには今は「第3次世界大戦」真っ只中なのです。

(先生は社会の先生で、私が中学生の頃、歴史も教えてもらいました)


バランスを崩した世界


なぜ、戦争が起きるのか。

複合的に様々な要素が絡み合うとはいえ、一つ言えることは、「バランスを崩している」ということです。

大衆の思想が偏った時、国家レベルでの洗脳を疑った方が良く、「みんながやっている」にのまれてしまうと、アンバランスになります。

思想や宗教的な信仰が絶対正しいと言っていると、他の思想をもつ民族に対して、譲ったり、折れたりできなくなります。それで戦争になるのです。

そもそも世の中に正しいと言えることなんて何一つないのに、どうして人はそれを正しいと言えるのでしょう?


"正しい" は、戦争のタネになります。正しいほどに、他の人を排除しようとするからです。

その点、日本は昔から「八百万の神」と言って、「あれもいいよね、あ、分かる〜」と和の精神で調和を心がけてきた民族といえます。

折れる、とかではなく、察する。

危なそう、ならば、避ける。

でも、やられたら、やりかえす。

恩は恩返し、仇は仇討ち。

そんなつかみどころのない日本人として、我々はこれまでずっとやってきて…アメリカとは戦争してはいけないと思ってやってきた…けれど、結局は参戦することになってしまって敗戦し、今がある。

それでも第二次世界大戦終戦まで、一度も他国の支配下に置かれずに独立してこられた国というのはそう多くはありません。特にアジア圏ではタイと日本だけですからすごいことだとおもいます。

ある真実

何においても、大切なことは、「もうこうするしかないんだ!」とか「今、これをすべきだ!」みたいな、焦りやたった一つの道筋や、考え、言論に対して一旦、疑うということです。

「なぜ、コロナ禍が始まったのか?」

「なぜ、マスク?なぜ、ワクチン?」

「なぜ、増税?なぜ、投資?」

「なぜ、マイナンバー?なぜ、キャンペーン?」

「なぜ、地震?なぜ、事故?」

なぜ、みんながそっちの方向に行くように仕向けられているかを深く調べると、色んな違和感から凄惨な現実が導き出され、一つの角度では見せられてこなかった"ある真実"に到達することができます。

そのプロセスも、結論も、解釈もまた、自由です。

最初から最期まで、人は自由です。たとえカースト制で奴隷状態になっていても、心の中の自由までは誰も奪えない。


右翼でも左翼でもなく、"仲良く" 。

右か左か、上か下か、ではなく、"ひとつ"。

私はこれからもバランスをとり続けることを、意識していきたいです。

究極の程よく



"究極の無欲"か"究極の強欲"か、と西田文郎先生は言っていました。

しかし、切なる願いとしては "究極の程よく"が一番いいと思います。

西田先生曰く、

「死期迫っても全財産を皆さんにというヤマト運輸の小椋会長は究極の無欲です。マズローの欲求段階を超えたら、どうせならそうなりたいですよね」と仰っていましたが、私は違うと思います。なぜならば、最期まで人にありがとうって思われようとしているからです。

松柏の人


ここで、「松柏の人」(しょうはくのひと)というお話をしたいと思います。

このお話は、昭和49年創業のジャズ喫茶モカの秋田けんじマスターから伺いました。

「松柏の人」それは、自然の美徳です。

自分でも、人の役に立っていることに気づきもしない状態。

わかりやすい例えで言いましょう。

ある一本の松は、普段は何気なくただ立っていて、何も賞賛されません。

しかし、地震や火災で何一つなくなっている只中に一本の松がスッと立っていると、心の拠り所を求めた人々が、その松の木の前で涙ながらに拝み始めます。

それが「松柏の人」です。

いつもはいるのが当たり前で、誰からも称賛されないのに、有事の際に周りが勝手に持ち上げて注目を集めるような人。そして注目を集められても、本人は何のことだかさっぱりわからないというのが本物の「松柏の人」。

先の西田先生の「究極の無欲」は、無欲と言いながら「ありがとう」って思われようとしている点において、作為的です。

どっちがいいとかわるいとかではなく、「松柏の人」という意味においては人間的な意識は全く加味されない。

人でありながら、人智を超えた存在ということです。

どうでしょうか?なかなかこんな人、身の回りにいないのではないでしょうか?


弟信仰

私には障がいのある弟がいて、おーちゃんは松柏の人なんじゃなかろうかと思ったりしています。(ただの弟信仰ですね。笑)

おーちゃんには作為が全くないんです。良くも悪くも、無意識なのが彼の素晴らしいところです。

他の人からは見下され、差別されたり、逆に変に持ち上げられたりしますけど…おーちゃん自身は何も変わらない。笑

大儲けしようが、ハリウッド俳優になろうが、おーちゃんはきっとおーちゃんのままでしょう。笑

それはとても大切なことです。

つまり、なんでもない人やなんでもない物事が、なんでもない時から大切であるということに、自分がどれだけ気づけるか?という、自分自身の認識の課題でもあるわけです。

頑張る障がい者と頑張らない障がい者

よく、パラリンピックとかでハンデがある中「頑張る障がい者」と、西成とかその辺の下町で生活保護をもらいつつ「頑張らない障がい者」とがいた場合に、前者は応援するけど後者は差別、みたいな人々の心理的スポットライトの明暗が、シャープな境界線が、見える時があるのですが(笑)それも、こちら側の課題で、目に見えているところばっかり見て正しいとかって判断するのは、争いのタネになりうるということを私は常に心に留めておかなきゃなって思ったりするんですよね。(^◇^;)

ど根性大根

例えば、アスファルトから大根が生えていて、人々が「ど根性大根だ」と言っていたとします。

でも大根は、生えるのが当たり前で、もともとから頑張って生きている。

どちらかというと、そこに人が、勝手にアスファルトをひいていることを嘆くべきなのかもしれませんが、「ど根性大根」を憐んでいたり、生えているのを見て勇気をもらったりしている人たちのなんと多いことでしょうか…!

ただ、生えている。ただ、生きているのが当たり前なのに、なぜか人はそこに物語を見出し、崇拝の対象としたりする。

石ころとか柱とか、山とか動物とか…信仰の対象は何にでもなり得る。

もともと、なにもないのに、こんなに信仰が普及してしまっている、この世の中の全てがフェイクともいえます。

同時に、すべてを愛しくも思えます。

「松柏の人」は、人からありがたいと思われたくてそうしているのでしょうか?

そうではありません。

「松柏の人」は、一定していて何も変わらない。

私はずっと、「松柏の人」というのがよくわかりませんでした。

でも一つの真理に気づきました。

超自然的な力

それは、「松柏の人」は、「愛」や「大霊」のような超自然的な力そのもの、あるいはその力の象徴なのではないか?ということです。

超自然的な力の中に、小さな人間の浅はかな戦争という考えがあっても、なんてことはない。

当たり前が一番すごい。自然、ということが何よりもありがたい。

そんな気持ちにさせる「松柏の人」こそが、世界を変えてしまうのだとマスターも私も、睨んでいるわけです。

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