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「香花を懐かしみ、紫を邀める 」第7話

 第1話
《 第6話


 あとどれほどもない距離に獣の前脚が迫っていた。
 身軽に飛び上がる脚が木々の頭を越えて高く跳躍すると、幹の裂ける音とともに、重い身体が地響きを轟かせて降り立ち、行く手を遮った。木々が倒れるほどの激しい風に煽られながら、ビオラは咄嗟に踵を返す。
 その後ろで、アコラスは地に這いつくばったまま立ち上がろうとしなかった。
「なにをしている!」
 怒号を放ち、引き返す。有無を言わさず乱暴に担ぎ上げ、ビオラは生い茂る草叢の中へと飛び込んだ。
 陰の気が満ちる雲南山ほどでないにしろ、森には魔の気配が迫っている。魔が水気を好むことくらい、僧侶であれば知らないはずがない。それなのにこの男は、とビオラの怒りに触発されてアコラスも憤った。
「どこに向かっている! 森を出ろ!」
 背を殴りつけながらアコラスは耳元で叫んだ。
 ビオラはその噛みつくような声をはね除ける。
「黙れ、蠱業使い」
 アコラスは拾った小石を握りしめていた。
 石は掌に温められて、表面に八色を重ねた天の色が染まる。日輪の綾を描いてその形は鈴となる。枯れ葉に交じってひらりと散る鳥の羽をたぐり寄せ、それを鈴にくくりつけた。
「使えるのは、蠱業だけだと思っていたが」
 睨むようなビオラの眼差しを感じつつ、アコラスは身体を上げる。
 目の前に、柔らかな草でもなぎ払うような巨大な身体がみえていた。再び飛び上がろうとする獣を睨み据え、握りしめた鈴を力の限り投げつける。
 鈴は風を貫いて羽を伸ばし、口笛のごとく涼しげな音を転がす。獣の鼻先に留まると、鈴――、と、細やかな風の音を響かせた。
 清浄の音である。鈴の音は邪気を拭う。刹那、獣の脚が炎に包まれた。
 しかし、火だるまになっただけでは止まる気配がない。更に深く草陰へと追い込まれるビオラの身体は、葛のような細い邪気が絡みつき、身動きもままならない。
 青ざめる雀たちだけでもせめて開放してやろうと、アコラスが懐の瓶に手を伸ばしたとき、
「教師、こちらへ」
 その腕を引き留めるように、屈強な腕がアコラスの身体を抱え上げ、荘厳と錫杖を打ち鳴らした。
 森を閉ざしていた靄さえもが晴れ渡るほどの清らかさであった。
 錫杖の響きは風のように地を流れ、魔を押し払う。氷雪をちりばめるかのように、辺りは白く光り輝いた。
 アコラスはゆっくりと下ろされる。
 忽然と姿を現した僧侶の姿にたじろいだ。
 目を交わし、密かに問答を繰り返す男とビオラに、どういうつもりだと、様子を探る。
 僧衣は海蘭寺を示す壊色。蠱業の依頼は海蘭寺を通じて行われるが、僧衣を纏う修行僧が外出を許されるのは修行のときと限られている。蠱業使いの監視もかねて、水車小屋にやってくるのはペチュンくらい。
 嫌な噂が立つアコラスに、他に接触したがるものもいない。だからこそ、ペチュンは蠱業をまるで自分の力と錯覚し、威張り散らしていられるのだ。
ビオラのことでさえ、海蘭寺への道案内として特別に寄越されたのだとばかり思っていた。法師の所へつれていくというのは、当然、海蘭寺の高僧、法師プランツへの面会のことを言っているのだと。
 ところが、この僧侶が毛髪を長く垂らしているのを見れば、おそらく、海蘭寺の一派ではない。では、一体この宗派たちは何の目的で連れていこうとするのか。
「危害を加えるつもりはない。ついてきなさい」
 錫杖をならし、衣を払って進む素振りは厳かで物々しく、近寄りがたい。男の態度には、心身が引き締まるほどの威圧的な雰囲気があった。
 じとりと背中に汗を伝わせて、アコラスの目は逃げ道を探りながら、闇を垂らす鬱蒼とした木々の間を進んでいく。
 空を閉ざすほど折り重なった枝が開けたとき、溢れるほどの光りが目を刺した。目の前を悠然と横たわるのは、白く泡立つ河川であった。
 天の歪みに源を発するといわれる、熒江である。
 押し迫るようにして切り立つ断崖の間を、蛇のようにうねって大海に注ぐ。その河川の川上に跨ぐようにして高く聳えるのは、宮殿が聳える水雲山である。
 天の歪みから滴る川の名残を宮殿とし、そこを熒江のはじまりとする。川は海の親であり、海の道が国を導く。
 海を持つ女が国を治め、それを主とたてた。
 その熒江に、二頭の水牛が、跳ね返る飛沫を顔に浴びて紐に繋がれていた。
「先に乗りなさい」
 男の声にビオラがアコラスを担ぎ、鞍に跨がって手綱を掴む。
 不安定な背に振り落とされそうになりながら、アコラスはしがみ付くように後輪を掴んだ。
 刀子を握った男が、繋いでいた縄を勢いよく切り落とした。
 二頭の水牛は水の流れに逆らって力強く歩み始める。
 二人の宗派が陸路を選ばず、番船の目をかいくぐってまでわざわざ川路をいくということは、よほど人目を気にしてのことらしい。



第8話 》

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