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「香花を懐かしみ、紫を邀める 」第2話

《 第1話


 腐った水の匂いが肌をうつ。

 夥しい緑陰の気配に草木は鬱蒼とゆれ、猛然と匂い立つ草叢は咲きこぼれたライラックの花の色に濡れていた。

 村墟である。

 生暖かな風の淀む川辺に、その水車小屋はあった。

 花みどろの屋根は夜露が沁み出し、冴えた笛の音を響かせるような風の音が、葛の絡まる部屋の中を巡っていく。

 びっしりとこびりつく蜘蛛の死骸に、窓ガラスさえもが黒ずむような陰気な部屋。

 灯りもない仄暗い部屋の中を見回すと、その濃い影の際を射すようにして、無垢材のカップボードが忽然と輝きを放った。

 棚に、僅かと並ぶ透明な輝き、――瓶である。

 そのほとんどの容器は、薄黒く濁った液体に満ちている。

 瓶の隙間を埋めるようにして押し込まれた書物にも埃がつもり、星屑をからめたような蜘蛛の銀糸が垂れ下がっているのだから、蓋の下からでも、鋭い腐臭がにおってくるようにさえ思われた。

 そこに、

 ――キィ……

 と、蝶番が軋む。

 棚の下の観音扉が俄に開いた音であった。

 唐草の描かれた扉の中には、薄汚い布をまとった青年が、敷き詰めたクッションに埋もれて眠っていた。

 目深に被ったフードからこぼれる豊かな灰色の髪に、すらりと長い手足を外套に巻き込んでいる。その姿は、まるで醜い芋虫が、美しい蝶へと変態を遂げるために、羽化を待っているようであった。

 すると雀が三羽、身軽に枕元へと飛び移ると、口に咥えた綿菅を槍のように振り回した。クッションに沈む彼を見て、忙しなく羽振りを繰り返す。

「――アコラス」

 青年の異変に気が付いたのだ。

「アコラス、起きろよ!」

 青年は強く身体を抱きしめていた。

 まるで、何百本もの釘が心臓を貫くかのような激しい痛みからたえていたのだ。全身は冷や汗にぐっしょりと濡れ、乱れ打つ鼓動の激しさに、ぐっ、と拳を握りしめた。

 耳元で騒ぐ雀の鬱陶しさに苛立ちながらも、黙れ――、と追い払う声さえ出せず、更に激しい痛みに悲鳴をのみ込み、硬く手足を抱き寄せる。

「アコラス、大丈夫か?」

 何度経験しても慣れない痛みだった。

 蠱業――。

 名を体と見做して呪う業。逃れる術があるとするのなら、術者を殺すことだけ。さもなければ、蠱虫に冒され命は果てる。

 アコラスを襲う痛みは、その応報の痛みであった。



第3話 》

#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門


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