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「香花を懐かしみ、紫を邀める 」第3話

 第1話
《 第2話


「閻魔には、まだ、言うな……」

 噛みしめた奥歯の間から押し出されるような低い唸り声である。

 アコラスは床から瓶を一つ取り上げると、不安げな雀をつめ込んだ。

 わっ、と騒ぎ出す雀を尻目に痛み止めを探して棚の中をまさぐる。

 薬草を煮出して注いだ記憶はしばらくない。引っ張りだした容器の中は、僅かに残った汁がこびりつくのみ。舌打ちを飲み込み、徐に、瓶口に舌を巡らせた。

 呼吸は尚も苦しげに空気を喘ぎ、息を吸う微かな動きにさえ激痛が走るほど。最後の一滴をのみ込むと、転げ落ちるように寝台から這い出した。

 虫のように這いつくばって洗面所に向かう。

 罅割れた鏡の前に手をついて立ち上がり、襟首をグッ、と押し下げた。露わになる胸を目にして、やはり、と、すさまじい失意に瞼を伏せる。

 ほとんど融けかかった皮膚の下、肉さえも爛れ、骨の隙間からは落日のごとく、紅く燃える炎の襞が露わになっていた。

 心臓の端である。

 ――酷いな。

 このまま蠱業を使い続けていれば、いずれといわず今度こそ、心臓が落ちるに違いない。

 アコラスは焦燥に駆られた。

 壁にふらふらと身体を打ち付けながら、廊下をゆっくりと戻っていく。

 テーブルの上の砂糖入れや、蓋付き瓶、埃まみれの硯箱を両腕一杯に抱え込むと、すべて焼き払ってやろうと外へ出た。

 そのとき、朦朧とした視界の端に、山のような影が飛び込んだ。

 怯むアコラスの肩が乱暴に引き掴まれる。

「依頼だ。戻れ」

 金貸しのペチュン。

 はっとして彼の顔を睨み付けた。

「調子は、良さそうだな」

 横柄な彼の声は岩のような野太さである。

 腕っ節に恵まれた体格をそびやかし、肩で風を切るように歩く彼は、徒党を組みながら都を闊歩する。今日はその仲間の姿は見当たらない。

 彼一人なら囲い込まれる不安もない。そう思ったアコラスの声は、しかし、絞り出すようだった。

「もう、やめたい。これ以上はできない……」

 突き飛ばす彼の手にアコラスは蹌踉めく。

「やめる?」

 嘲るような声色である。

 この粗末な家を、彼は家畜小屋とでも思っているような態度ではないか。上がり込んだ足は泥を跳ねて、舐めるように歩き回る。ふと、カップボードの前で足を止めた。

 怫然と、湧き上がった怒りが爆発したように、次々と棚の中を薙ぎ落としはじめた。

 その凄まじい音に、アコラスは身を竦める。

「お前に貸した金はどうするつもりだ? この素敵なおうちだって、俺の指示に従うって約束で安く貸してやっただけだぜ。やめるっていうんなら未払いの金も払ってくれよ。蠱業使いのアコラス。仕事はたっぷりあるぜ」

 すでに廃れた村に唯一残る水車小屋は手入れもされず、虫や獣の住処となっていたのだ。その何十年と放置された荒ら屋が彼の私物であるはずがない。だが、そのときは幼すぎた。言われるままに用意された家に押し込まれ、賃料を取るという彼に世話だてされれば従うしかなかった。

 唾を吐き捨てるペチュンに、アコラスは唇を噛みしめた。

 抱えた瓶には夥しいほどの虫が蠢いている。解き放ち、命令に従わせてペチュンの寿命を蝕むことくらい、造作もないはずだった。

 アコラスの死期は目前にまで迫っているようなもの。命をかけてまでこの男を呪うには惜しかった。

「こんなおんぼろ小屋が家だというのなら、野宿ほどの豪邸はみたことがない」

 アコラスは震える声で呟く。

「お前にはおあつらえ向きの家だろうが。そんなことをいうんじゃねえよ」

 苛立つペチュンは椅子を蹴り上げ、固く外套を閉ざす青年を凝らし見た。

 蠱業使いとして仕事を与え、都で薄暗く広まっている彼の正体は醜い老人と言われている。姿を見ただけでも呪われるのだという。

 それなら俺はとっくに呪われているではないか、と鼻先で笑う。

「まあ、考えてやらないこともない。瓶をおけよ。中の虫が出てくるのは、俺だって怖い」

 醜い男とはいうが、初物であるには違いない。ペチュンはそう考えていた。

 彼は自らに囁いた。蓑虫のように体を包む外套を剥ぎ取り、嫌というほど思い知らせてやれ――。と。

 そうすれば、わざわざ歯向かうこともなくなる。

 幸にして未だ飢餓に苦しんだことはないが、しかしこの、胸が結ぼれるほどの耐えがたい欲求は、まさに乾ききった飢えを満たそうとでもするようだった。

 ペチュンは思わず舌なめずりをして、逃げ道を塞ぐようにアコラスに迫った。

「いつものは、どこにある?」

 アコラスは自然と隅へ追い込められる。テーブルに身体を押しつけながら、抱えていた瓶をそっとおろす。

 まるで見定めるようなペチュンの目つきに、得体の知れない気味悪さを感じながら、彼を横目に手を伸ばす。掴んだ小瓶の中で、赤黒い液体がたっぷりと揺れていた。

 その中身は蛙の血である。山裾に住み着く蛙の交尾は七日に渡る。その最中の雄蛙を引き剥がし、激情に猛る血を一滴残らず搾り取った、媚薬。

 彼はアコラスに依頼を持ってくると同時にそれを一瓶もっていく。何に使うかなど聞きたくもない。どうせろくでもないのだから。

「あんたの世話にならなくたって、一人で生きていける」

「俺にだって面子っていうもんがあるんだよ。受けた依頼はこなせ。それから俺の条件をのみ込むこと。そうすれば手を引かせてやる」

「あんたが勝手に受けた依頼だろ。俺には関係ない」

 アコラスは得意げなペチュンの顔を睨み付け、殴りつけるように小瓶を押しつけた。

 それを絡み取るようにして取り上げて、ペチュンは喉をならしながら飲み干していく。

 空になった瓶を放る――、と、山のような身体がアコラスに被さっていた。

 まさかと怖気立つ。押しのけようとした手足は容易く搦められて、ハッとしたときには、身体はテーブルの上にあった。虫唾が走るほどの嫌悪感に汗を滲ませ、乾いた口の中で冗談だろ、と呟く。

「俺が、どんなに醜い男か、暴いて笑うつもりか」

「お前の外見に興味なんかないね」

 警鐘を鳴らす脈の向こうで、甲高く悲鳴を上げているのは雀だった。叫びたいのはこちらの方だと、アコラスは歯がみする。

 爪先は床を離れ、臀の肉を揉むような手が腰を高く持ち上げた。次第に彼の吐息が荒くなる。

 アコラスは生唾を飲み込み、口の端に涎を光らせるペチュンを睨み付けた。

「条件をのめと言っていたな」

「依頼を受けるか?」

「脅しのつもりか」

「脅し?」

 的外れな返答にペチュンは思わず呆気にとられた。どうやら、身体を強いられることが条件とでも思っているらしい。

 はっ、と笑い飛ばし、彼は言う。

「脅してやるほど優しくないぜ。思い通りにならないのは胸くそが悪いだけだからな」

「依頼は受けてやる」

 アコラスは咄嗟に答える。視界の端に瓶を見とめ、手を伸ばせば届くと踏んだ。

「最後だ。このさい従ってやる。だからその汚い身体を早くどけろ」

「非天の王を殺せ。鴻城の廟を開放すれば、人民は泣いて喜び、お前を尊敬しなおすだろうな」

 ペチュンの粗野な指がアコラスの外套を引き掴む。

 薄汚れた布の下から露わになるのは、反抗的な顔だった。

 乱れた灰色の髪は汗ばんだ肌に張り付き、荒げた息に濡れた唇は、血色に滲んで紅玉のように美しかった。隻眼はライラックの花の色に染まり、開けた肩口から白い肌が目を引く、梨の花のように清廉として、神秘的な容貌の青年である。



第4話 》

#創作大賞2024 #ファンタジー小説部門


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