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ハイコンテクストな社会と多様性

毎週日曜日の朝には面白い気付きを得られる勉強会に参加させてもらっている。バックグラウンドも知らない多様な参加者の共通点は、主催者を知っているということのみ。いろんな意見が聞けて、世界がどんどん広がる感覚がある。

今朝心に残った言葉は、「創造的先祖返り」と「多様性にはコストがかかる」。

多様性やコストの定義をどう捉えるかにもよるけれど、私は「多様性にはパワーが必要」だと無意識に読み替えていて、私たちの生命はそれぞれのパワーを出したがっている気配を感じている。私もその中のひとり。

学校教育や社会教育から、ここでの正解はこういう言葉だよねとパターン認識の学習を繰り返してきた。子どもの頃から、心の中で思っていることと、表現することを分けてきた。狭い世界での優等生やできる人という仮面を被ることが正解だと思っていた。
いや、何も考えていなかったと思う。ただ体がそれを習得し実践することで、それが正解だという成功体験を無意識に作り上げてきただけじゃないかな。

一方、人と同じじゃ嫌な私の根底の部分はそれに逆らおうとするから、上手く立ち回れるけど、面白くない。振り子のように、両方を行き来するのが私の生きる力だった。いやぁー、本当に面白いほど人生でそれを体現しているもんね。

そんな私に痛恨の一撃を食らわせるのがインドだった。インドには人生で3回も行って、3回目は仕事で6年も住むなんで、よっぽど私の中の何かが発動しているとしか思えない。私の生命が私に味わわせたいものがあるに違いない。

たぶん、一つ目は「生命力」。
20歳前後にバックパッカーとしてインドに行ったのが初の海外旅行。人生経験のない小娘は、生命の危機を感じることもあれば、インド人とバトルも繰り広げ人間不信に陥ることもあった。しかし、帰国して残った感情は、「生命力が凄いな」という尊敬の念とも愛着とも言える感覚。

二つ目は「多様性」。
3回目のインドでやっと、普通に生活する(旅行者相手ではない)インド人に触れた。複雑な歴史を持ち、言葉も文化も多様な社会を成り立たせている彼らに触れるのは、私の知的好奇心をものすごい勢いで満たした。うまく行かないことも含めて、毎日が発見と気付きの連続だった。

エリン・メイヤーが分析するようにインドは「ハイコンテクスト*」な社会だと私も感じている。家族や所属コミュニティーではもちろんだろうが、私がいた職場でも対立は避けるし、言い回しも柔らかい。日本と似ている部分も多々ある。

一方、日本と違ったのは、職場で意見が言えるということ。むしろ、自分の意見を言えないと評価されない。慣習よりも創造性が重視される。前例踏襲なんて考えてない。それに意味はあるのか?合理的なのか?を考え、上手くいく方法を生み出し、人を動かせる人が優秀、言われたことをするのはジュニアという考え方だった。だから、上下関係はわきまえつつ、みんな主張する。

リーダーや管理職になるほど、受容力と判断力が問われる。

私が経験したのはIT業界だったから、特にそうだったのかもしれない。競争に勝ち残るためには優秀な人材を多く抱える必要がある。そのためには、若くても優秀な人材の意見を聞き活躍の場を与えることは重要だ。一方、優秀でないからと急な解雇もしない。法的に守られていることもあるが、適材適所にしておき、人事考課の評価が悪く昇進や昇給がなければ自然と転職すると考えていた。業界の平均離職率くらいであれば、ヘルシーだと捉えていた。

何を言いたいかというと、日本のようにハイコンテクストな社会と多様性が両立しているのをインドで経験したなぁということ。あるんだなぁと。そして、それが好きなんだなぁ。

多様性に向かうのであれば、意見を共有できる環境が必要だと感じてる。こんなこと言ったら場を乱すと意見を言えなかったり、多様性はこうある「べき」みたいな個別の正義を押し付ける場では、誰も本音が言えないよね。コミットできない。

私がインドで感じたことを現実に落とし込むために辿り着いたのが「対話の学び」なんだろうと思う。日本でも表現したい人達が増えているような気がしている。もうそろそろ多様性というキーワードの下にそれぞれのパワーを出したいんじゃないかなって。少なくとも私はそうだな。

*ハイコンテクストは文化の共有性が高く、言葉以外の表現に頼るコミュニケーション方法を指す。 言葉による説明が少なく、会話の際は表情の変化や声のトーン、体の動きなどの行間を読むことが求められる。 あるいは、共通認識や文化的背景、知識、カルチャーを前提として会話が進むのも特徴だ。


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