書評/『オールド・テロリスト』村上龍

「老いは絶対的な事実で、あきらめと自己嫌悪と怒りを生む。あきらめは老人をたとえば趣味に向かわせ、自己嫌悪は疾病や隠遁に向かうのだろう。年老いて、あきらめと自己嫌悪から逃れるためには、怒りを活用するしかないのかも知れない。」(p429)

 構図としては、妻と娘に我が元を去られて鬱病になったジャーナリスト・セキグチが、若者を操ってテロを引き起こす老人集団・キニシスギオへと接近していく、というものだった。

 村上龍の作品の中では「構築系」にあたる作品ではないか、と最初は考えた。この「構築系」という作品群は村上本人が使っている言葉でもあるが、『五分後の世界』『半島を出よ』『希望の国のエクソダス』がそのグループとしてまとめられる。いずれも、緻密な「シミュレーション」を経て構成された、濃厚な作品である。

 しかし『オールド・テロリスト』を読んで私が感じたのは、それらの作品群よりもさらに「現実」あるいは「現代」に近く、寄り添っている、ということだった。

 「現実」「現代」に近い、とは、作品世界が『五分後の世界』などの作品群よりも歪められた視点で書かれているということだ。
これは、主人公が鬱病やP T S D(心的外傷後ストレス障害)を発症していることが大きいだろう。
「歪められた」と私が書いたのは、村上龍が意図的に「現実」を歪曲して、あつらえ向きの世界を形づくったということではない。
むしろ、明晰な「シミュレーション」によって構築された『五分後の世界』その他よりも、「現実」の歪みや重さを意識した作品だと言いたいのだ。
「老い」という現実が痛ましいほど描写される場面もまた、この小説内には多い。
刺激的でありながらも、作家の「晩年」を意識させられる作品は、国内・国外の文学史を眺めてもかなり稀だと言えるだろう。

 村上龍のもっとも新しい作品である『ユーチューバー』はずいぶん前に読んだ。
その最新作と『Missing 失われたもの』、そして今回取り上げた『オールド・テロリスト』を読んで感じるのは、この作家がそうとう暗い「晩年」の中にいる、ということだ。
おそらく、亡くなる前に出せる作品は1、2作、多くても3作だろう。
村上龍には最期までエキサイティングであり続けてほしいと願うのは、読者のわがままであり、エゴに違いない。
しかしそんな読者を育てたのは、紛れもなく村上龍自身なのだ。

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