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肥薩線に乗り遅れた父の話~昭和20年8月

先日の自己紹介で何気なく父の話を書きましたら、ぽろぽろと色々思い出された事の1つを書いてみたいと思います。

今から4年ほど前の事。
熊本に住む叔父に会うため、姉夫婦と共に叔父を訪ねる小さな旅をしました。
叔父の家は熊本ですが、鹿児島県寄りの小さな町にあります。
せっかく鹿児島空港に降り立ちましたので、指宿、知覧を回ってから人吉、叔父の家というコースの3泊4日の旅でした。

皆さんは肥薩線をご存知でしょうか。
鹿児島県の隼人駅から熊本県の八代駅までの124.2㎞を結ぶ路線です。
途中に人吉駅があり、今回の目的地はそこでした。
私たちは指宿、知覧を廻り終えて鹿児島中央から特急「はやとの風」に乗りました。
特急は隼人駅から肥薩線という路線に入り、終点吉松駅まで向かいます。
途中駅には嘉例川(かれいがわ)や大隈横川(おおすみよこかわ)など古き良き時代の駅舎が残されていて、一度は下車してみたい駅が沢山ある風光明媚な路線でした。

肥薩線路線

隼人駅ー嘉例川駅ー大隅横川駅ー吉松駅ー真幸駅ー大畑駅ー人吉駅ー八代駅

(途中駅割愛しています)


吉松駅からは特急「いさぶろう・しんぺい号」に乗り換え、肥薩線の線路をそのまま人吉まで向かいました。
吉松駅を出発し次の駅の真幸駅(まさきえき)に向かう途中でした。
特急は急に速度を落とし低速でトンネルを通過するのです。
そしてアナウンスが流れました。
それは昭和20年8月22日、ここで大きな鉄道事故があり多くの方が亡くなったという内容でした。

そう、父が乗り遅れた肥薩線とはこの列車でした。

肥薩線列車後退事故

昭和22年8月22日正午過ぎ頃、事故は起きました。
8月15日の終戦に伴い、戦争末期に鹿児島周辺に配置されていた部隊は、吉松駅から帰郷の途に着くために駅周辺に集結していたそうです。汽車の本数があまりに少ないため、帰郷を急ぐ多くの兵隊さんが乗り込み、それは溢れるように客車の通路や屋根にまでおられたそうです。
5両の客車と貨物8両に人が乗り込み、それを挟むように先頭を蒸気機関車が引っ張り、後押しのために最後尾にも蒸気機関車が付く形で吉松駅を出発。
人吉に向かう途中上り勾配のきつい第二山神トンネルに差し掛かると、非常に多くの人を乗せていた列車はとうとう立ち往生してしまったのでした。途端にトンネルの中は黒煙と熱で息も出来ぬほどの状況となったそうです。
息苦しさに多くの兵隊さんが狭くて暗いトンネルから脱出しようと、線路づたいにトンネルの入り口へと逃げ出したのでした。
その時先頭の蒸気機関車は既にトンネルを抜けておりましたが、後方の機関車はトンネル内部。前後の機関車同士の連絡方法もなく、列車を後退させた時に事故は起こりました。
黒煙と熱で息も出来ぬ中を逃げ惑う兵隊さんの50名が後退してきた列車に轢かれ、命を落とされたそうです。他にも負傷者が50名近くおられたそうで、救助に到着した時の状況たるや言葉に出来ぬほどであったとの事です。

時を超えて伝わる教え

「いさぶろう・しんぺい号」の中でアナウンスを聞いていた時、義兄が思い出したように父の話をしてくれました。要約すると、父はこの列車に乗って早く故郷に帰りたかったけれど、荷物の整理などしていたら遅くなり、人が多過ぎてこの列車に乗ることが出来なかった。という事でした。

父が他界してすでに20年。
なんと私はこの日初めてこの話を聞きました。
しかも70年前の、父が17歳の夏の話をです。
父が生前この時の話を、私たち娘ではなく義兄だけに淡々と話してくれたそうです。

このエピソードは、いつも私に「物事は小さな視点で見るな。」と教えてくれます。
器の小さな私は、渋滞でなかなか前に進まなかったり、お会いする約束だった方が急にキャンセルされたり、やっと行ってみたお店が閉まっていたり、考えと違うことが起きるたびに心が損をしたかのようにいつも動揺していました。
けれどもその不都合は、実は幸運に繋がっていて、難を逃れたり、いらぬ出会いから守って頂いていたりしているかも知れませんね。

最近はその様に思ってなりません。

最後に肥薩線後退事故に遭われた方々の、ご冥福を心よりお祈りいたします。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!



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