野菜・果物を社会として捉えてみた

京都に行って、斗々屋にいて、「規格」について考えるようになった。

市場に出回る野菜・果物は、流通や消費の効率化のために規格内の野菜のみ扱われる。これが人間社会の縮図に見えた。効率を追い求め、「普通」という名の「規格」におさめよう、おさまろうとする。野菜でいう「規格」からはみ出た者は生きづらさを感じる。

斗々屋にはいちびり野菜、いちびり果物が多く並ぶ。「いちびり」とは関西の方言で、「人と違う変わったことをしている人」、「目立ちたがり屋」という意味らしい。いくつかの足にわかれた人参や、すっごく大きなイチゴ、いわゆる傷がついたトマト、傘がつながったように見える大きなシイタケ、個性あふれる野菜や果物がたくさんある。そしてそのままの状態で活躍できなくても、キッチンでお惣菜やピクルス、酵素になるという新たな活躍の場がある。お惣菜を作る過程で出てしまうどうしてもお惣菜に慣れない部分(トマトのへたやイチゴのへた、バナナの皮など)も、コンポストに入り、新たな命の栄養となる。野菜・果物それぞれに活躍の場があって、個性が生かされる。

野菜・果物の意思とかわからないしこの縮図的な考えは深く考えると、ん?ってなるかもしれないのであまり深く考えないでほしい。
単に、「規格」、「普通」にとらわれずに生きられる社会っていいなと思った。

p.s.今の社会では規格外の野菜を売るとなった時に安値になり、規格の野菜の価値が下がるため、農家さんは規格外野菜をあまり売れないという話を聞いた。どうしたらいいものか、、もしもの世界を考えてみた。規格がなくなって、効率的な流通ではなくなるから地産地消が促進されて、そしたらどうなるうだろうか? お店に並ぶ野菜の種類はどのくらい減るだろうか?