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目的の与り知らぬ旅③~南インドリトリートでの出会い⑴

2月半ばからひと月間、南インドアーユルベーダリトリートでパンチャカルマトリートメントを受ける。

これが旅の目的でした。
リトリートの間はそれぞれコテージで暮らしますが、食事はヴィーガンで、特段の理由がない限り、誰もが食堂に集います。
そこではみんな挨拶を交わし、出される食事でお互いの進行状況を推します。

そこで毎食お会いする方がある日話しかけてこられました。「○○い○○」
日本語?

その方は北インドのマニプールから来られたと話しました。
すると、夫が「インパールのある?」
お伺いすると、そこには、第二次大戦後そのまま残られて暮らされた日本人の方たちがいて、その人たちが名付けられた花があるというのだ。

あまり話のできない私は、翌日その方にお手紙を書きお渡ししました。メモのようなものです。

日本人のその名付けた花への想い。
そして、実は夫の父親がインパール作戦の本当に数少ない生還者であること。作戦で前線で戦い戦友たちはほとんど戦死。それを目の当たりにし、義父も焼夷弾が両眼に入り、視力を失いました。そこへ象の大群が更に皆を踏み潰して行ったそうです。その後助けられて船で護送される途中で、船は撃沈。放り出された海で何か丸太のようなものに捕まって浮いていたところを助けられた時、周りは火の海だったとそうです。そして、内地へ飛行機で返される時さえ、3機で離陸した後、2機は撃墜されたそうです。
命からがら鹿児島に帰還したと聞きました。

従って戦後の戦友会も戦友がいないため、他の隊に入れていただき活動。常に目の変わりをしていた義母は戦友会に共に参加していました。
戦後、鍼灸師の免許を取り、県の小児肢体不自由施設で定年まで勤め上げました。

その話を読んでくださった北インドの方は、私たちのコテージを訪ねて、私の話が「touched」だったと仰り、主人の足先にそっと手を置き、深々と頭を下げられました。
1945年日本は敗戦。しかし、この大戦への参加は植民地化されたアジアの国々の独立が目的だったことを知らされました。
1947年にインド政府は独立を助けてほしいと日本政府に正式に頼まれたそうです。
そして、インドは独立を果たす。

そのための日本の犠牲を重々知った上で、とても感謝の意を示してくださったのでした。
そして、「その花の季節においでください」とお誘いまで受けました。

夫は「今回の旅の目的はこれだったのか!」とミラクルない出会い、インドはやはりミラクルな国と驚きを隠せませんでした。

義父は心丈夫な人で、白い杖は付かないで、道を記憶して行動する。旅行も好きでしたが、義母が景色を説明するとそちらの方を眺めて「きれいだなぁ」と微笑んでいました。尋ねると、「心の目で見る」と答えてくれました。

でも、さすがにインパールまでは行くこともできなかったのでしょう。色々な思いもあったのかと思います。
生前に戦友の御霊に労いの言葉をかけてあげられなかった悔恨を私たちに託された氣がしています。