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原始時代から歴史時代へ

縄文時代とは先史時代では無い


           図 旧石器時代の石器
旧石器時代の記録とは、それは略失われて遺されていないから
有ったのかも知れないものの分らない

新石器時代のブリコラージュ
1.土器開発以後の歴史は、歴史時代である
土器開発の最初から、土器に模様や突起として、縄文時代の生業開発などの
画期となる歴史が記録されていた。文字は作られていないものの、土器造形の可能性は、文字無しでも記録が可能であることを示している。
このことは他の古代文明に対して縄文時代の特に優れた特徴と出来る。
図 マメ類の栽培種成立までの歴史
図 狩猟などの新しい道具開発の歴史
図 太陽こよみ開発の歴史記録

2.土器以前には磨製石斧や尖頭器、有茎尖頭器などの細かい細工が施された
石器が作られるようになっていた。
約4~3万年前にかけて世界最古とされる磨製石器(局部磨製石斧)が多数発見されており、
すでに列島では独自の磨製石器の使用が見られる。
図 磨製石斧
図 尖頭器
図 有茎尖頭器

3.それ以前には打ち割った長い石刃や長い槍の穂先が作られていた
これらの石器は、それ以前から存在した石器造りの技術を用いて
打ち割り方を方を工夫したもので、細かく仕上げを施したものではない。
図 

石塊の打ち割り方を工夫

この時期前後の石器の状況は次のように示されている。
日本では、11万年前には石器が使われ、
3万年前には加工した磨製石器(世界最古)が使われ、

群馬県の岩宿にて、現時点における最古の磨製石器が発見された。少なくともその年代から人々が日本列島において道具を製造する営みを行っていたわけである。

石器(打製石器)そのものは11万年前には使用されていた。三万年前の磨製石器の出現の後、16500年前には最古の土器が、13000年前に土偶、そして12500年前まで時代を下ると漆が栽培され用いられていた。

長野県域でも旧石器時代の遺跡がいくつか発掘されている。
その中の野尻湖遺跡(立ヶ鼻遺跡)から人類が活躍していたことを示す槍状木器・骨器・剥片石器などの遺物が発見されている。この遺跡はナウマンゾウやオオツノシカなどの大型哺乳動物を解体したキルサイトと推定されている。
時期は約2万5000年前から3万年前のものである。全国で発見されている斧形石器の約4分の1にあたる239点を出土し、刃の部分を砥石で研磨したものが多く、世界でももっとも古い磨製石器と言われている[17]。
そのほか、この時代の遺跡としては仲町(信濃町)・日向林B(信濃町)・石子原(飯田市)遺跡が発見されている。

このような状況から、旧石器と呼ぶに相応しいものは、人類が作り始めた
石器技術の継承のままである、3.以前の時代では無いかと考える。
2.は新しい加工技術が開発されたことから、新石器と呼ぶのが良いのでは無いか。
その理由は日本旧石器文化の三大特徴
「環状ブロック群」は「陥穴(おとしあな)」「刃部磨製石斧(じんぶませいせきふ)」と並ぶ日本旧石器時代の3大特徴であり、世界史的に見ても例を見ない日本独自の旧石器文化のひとつとされ、日本の旧石器時代を考える上で欠かすことのできない遺跡です。とされていることから見ても新石器時代と言えるものと考える。
3.は土器がメディアとして使用され、歴史時代であるとするのが適当と考える。
日本列島では石材の調達が容易で、細石刃を用いて石材原料を省資源するような、細石刃を埋め込んで槍の穂先を形成するようなことは無かったようだ。

歴史時代の記録
シュメール文明から

トークン


文字を記録した土板

          図 トークンと土板
土板には文字による記録が遺されていた
トークン 取引の記録

縄文時代は超古代文明である

          図 世界の古代文明
西アジア、シュメール文明、メソポタミアで土器が作られたのは7000-8000年前
東アジアでは17000年前頃から土器が作られていた
土器とは粘土から造られるものなので、思い通りの形が造れて、永久に遺せるものである。
言語学では土器の発生が言語の発生を示す指標になるとされているようだ
日本語は土器最も古くから発展してきたのかも知れない

1.火焔土器とは何か
 容器なのか、鍋釜なのか
 何れでも無い
 情報を伝えるためのメディアである


マメ類のつい倍種完成を記録した


2.粘土に豆粒を練り込んで作られた土器は何なのか
 この土器はマメ類の栽培種の完成を祝い記録して伝えるためのメディアである
3.無文土器とは
 最初の土器と云われている
 土器は最初から鍋釜として使えるようなものが作れるのか
 鍋釜では次々壊れて膨大な量が作られて遺されている筈なのに無文土器はほんの少ししか無い

無文土器はこれには記載されていないが最初期の土器である

          図 日本列島での土器の変遷
縄文時代は無文土器から始まり、10000年以上作られ続けた
容器としては編み籠が旧石器時代から作られていたと考える
旧石器時代末に狩りの獲物が減少して、食料の比重を植物に向ける必要が生じていた。ところが日本列島では、食料に出来る適当な植物としては、原種マメ類しかなかった。雨が多く栄養分の乏しい台地でも、窒素固定化を利用できる原種マメ類は良く生えていた。しかし原種マメ類は莢が爆ぜてしまい易く、種が細かいため、編み籠では目漏れしてしまい、採集するには困難が大きかった。編み籠からの目漏れを防ぐため、手近にあった粘土を目に塗り込み、目止めしたのではないか。これが起源となり土器発生に至ったものと考える。
この土器は目の無い籠であり、籠の目文様の無い容器、その事を伝える無文土器である。
この時期の土器は数も少なく、形もよく分らない状況である。
次に現れたのは豆粒文土器であるがこれも数が少なく形もよく分らない。

その後弓矢による猟が始まり、弓の弦を示す隆起線文土器が作られて、列島全域で作られるようになり、土器の作られる量がそれまでより大幅に増加した。石鏃も開発されて爪形文土器が作られた。
この時期の土器は丸底の土器である、これは植物性食料の採集のため持ち運んでいて置こうとしたとき、何処でも簡単に置くことが出来好都合である。

土器の形はその後、早期には砲弾型や尖底土器になる
この時期には土器の量は爆発的に増加した。このことから、この時期に土器は本格的に煮炊きに利用されたものと考える。

撚糸文土器

弓の弦を細く強い紐にするための開発は、魚釣りに使用できる撚り糸を生み出したものと思う。
撚糸文土器は糸巻きに巻き取った魚釣りの糸で土器に文様付けを行った


魚網の完成

その後羽状縄文土器が作られる
魚釣り漁から魚網による漁になったものと考える。
釣り糸と魚網では必要となる糸の量は雲泥の差で、1000倍ほどでになるのではないか、この様な量の糸をどのように作ったものか。
原材料は畑で作ったのか、蚕が作ったものか
いずれにしてもこのことは、農耕の始めになったのでは無いかと考える。
この後に原種マメ類から栽培種が成立し、マメ類を粘土に塗り込んだ土器が作られている。


この時期にはこれまでの縄文を主とした土器の模様付けから、縄文が失われた諸磯式土器に変化している。
縄文土器の時代は、生業開発が進展して、その歴史が縄文土器に記録されてきた時代である。縄文土器の時代はシュメール文明を遡ること10000年以上前から新石器時代の始まりからの歴史が記録されていたことになる。

粘土・土器とは文字も無い新石器時代の記録材、メディアであり
こうした一連の記録が新石器時代の始から造られていたのは
縄文時代以外、何処の古代文明にあるでしょうか

と言われても、まだ半信半疑でしょう
これを示すはっきりした記録は、早期から作られるようになった突起土器です。これは模様では無いので、数を示していますから幼児でも分ります



         図 突起土器の歴史経過
何故中期になるまで 3突起土器が作られないのか
2,4,6,8,12 とあるのに 3突起土器はその後である。



図 3突起土器の展開
何故これほど様々に装飾されているのか
このことは 3と言う数がそれだけ重要だったことを示しているものと考える。何故なのでしょうか

国指定遺跡・金生遺跡には太陽のこよみを観測する山のピークと石棒がある



           図 3D地形図と配石
ここでは春の季節の始まりの日 立春と、秋の季節の始まりの日 立秋の二カ所を観測するための地理環境と石棒がある
これは何でしょうか



         図 縄文時代の太陽のこよみ



          図 カレンダー 太陽と月のこよみ
これだけあれば先ほどの何故かは解けるはずですがどうでしょうか

縄文土器はメディアとしてシュメール文明より10,000年以上前から使われてきました。世界でも最も早くからのものでしょう。
土器が作られることが始まり、土器の存在により日本語の形成も促進されてきたものでしょう。日本語も世界で最も古い言葉では無いでしょうか
言語学からもその事は云われてきているようです

  図は各展示施設からお借りして、一部補足しています

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