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【小説】ホイアンの日本橋

 ハノイ行きを告げるアナウンスが流れている。

 ――乗って来た便の折り返しだな。

 そう思いながら、足元に置いたトランクにそっと目を落とした。

 それにしても、とふっと笑みが口元からこぼれる。空港の搭乗案内の声色とトーンは、どうしてこうもどこの国もよく似ているのだろう。ここ東京も、上海も、パリも、そしてあのハノイも。

 ただし……。

 彼はまた、足元の使い古された黄色いトランクにじっと目をやった。今回これほどこの国というものが、日本が、遠くに感じられるようになるとは――。

 場内には今また、ハノイ行きの最終案内を告げるアナウンスが流れている。アナウンスの声を安岡は、どこか遠く背中の向うで虚ろな気分で聞いていた。

 ともに三十を過ぎたばかりであろうか、安岡の隣では細身のスーツ姿の男がふたり、嗄れた声でまくしたてるように話している。安岡はちょうどふたりの男が早めの昼食を終えたころ、隣のテーブルに案内された。

 男たちは安岡が隣の席に着いても、まるですぐ横に来た者の存在すらも認めないかのように、それまでと変わることなく大きな声で話を続けている。しかもここは、爪先立てて、席と席の間を縫うようにして通らねばならないほど近い距離だから、耳に入って来る疳高い大きな声が、頭全体に響くようにかまびすしい。

 店の中は混み合っており、見渡したところ他に席の移りようもなく、身の丈には少しばかり大きなトランクを抱え込むようにして席に着いた安岡は、日本に帰って来てほっとした気分も冷めやらぬうちに、どこか遠い異国にでも紛れ込んだような気持ちに襲われていた。

「あいつさあ、ここんとこパチンコ屋で働いているんだって。このあいだ一度会ったけど、客に睨みつけられたんで、逆にシバいてやったって息巻いてたよ」

 安岡はメニューを操りながら、出された水を一くち口に含んだ。なんだか生ぬるくアルカリ臭が口の中に残って、日本の水はこんなだったかなとテーブルの端に水の入ったコップを押しやった。

「へえ、相変わらずだな。それでもあいつ、クビにはならなかったの?」

「まだ働いてるって言ってたからな――。あいつさあ、ヤーさんの手下みたいなこともやってるからさあ、パチンコ屋の上にでも顔利くんじゃないの」

「へえ、相変わらず、ばりヤバいことばっかやってんじゃん」

 わずか二週間ばかりこの国を離れただけで、メニューに書かれた日本語に新鮮な気分を覚えるのも不思議な感覚だった。肘を伸ばせば手に触れそうな距離にいる、ふたりの男の大きな声の会話に頭の中を占拠されて、なかなか注文の品もまとまらない。

「さて、そろそろ行く? もう出て来て、オレたちのこと探してんじゃないの?」

「いいよ、まだ! オレのケータイ番号までわざわざ教えてあるんだぜ。着いたら、ちゃんとむこうから電話してこいって。こっちはこうやって空港まで出迎えに来てやってるんだからさあ。ベトナムだぜ、べーやん! 待たせりゃいいんだよ。どうせ下請けの見学旅行みないなもんなんだからさあ」

 注文したざる蕎麦は、見事なまでに期待を裏切った。

 日本の蕎麦はこんなに腰もなくパサついた味気ないものだったか、と安岡は躊躇いながらも、端までやったコップの水をまた一くち口に含んだ。口内に広がってゆくアルカリ臭さが、安岡の気持ちをいっそう曇らせた。

 ふっとひとつ息をついて顔を上げた。壁に掛けられた一枚の絵に目が留まった。

 坂を描いた絵だった。油絵で、大きな土の坂道が一本、画布ぜんたいに描かれている、ただそれだけの絵だった。

 坂は太く盛り上がって、向う側に落ちて行って消え、それから先の道のゆく方はわからない。坂の上には雲が二つ、三つとたゆたうように流れている。

 坂の片側には家屋の塀が描かれてはいるが、画布の中に人の影はない。ぜんたいにどんよりとした空が漂っている。

 気が付くと、入り口は空きを待つ客でさらに混み合って来ていた。店員が男たちが去ったあとの隣のテーブルを慌てて片付けに来た。食べ散らかされた皿やコップが四方に広がっていた。

 安岡は、またひとつふっと大きく息をついた。そして、膝元に大事そうに置いた、よく使い古されたトランクの上にじっと視線を落とした。

 

 ――ふっ。国際空港なんてもう今の時代、どこの国も同じなんだな。さすがにベトナム語で流れるアナウンスまでは判らないけれど。

 少し張り詰めた気持ちのまま、右に左に眼を遣りながら荷物検査場を抜けると、場内に流れるベトナム語のアナウンスが耳に入ってきた。到着したハノイまで、一年前に赴任した二年先輩に当たる尾崎が、出迎えに来る手筈になっていた。

 安岡はすぐに、人やまの後ろから肘を伸ばしてこちらに向って手を振っている尾崎を見つけると、黒やまだかりの人の中を黄色いトランクを先頭に立てて、人を押しのけるようにして前に進んだ。

 尾崎の横には、白い開襟シャツ一枚をさっぱりと羽織るように着こなした小柄なベトナム人の男が立っていた。男は進んで来る安岡に向けて、にこにこと顔いっぱいの笑みを送っていた。尾崎によると、彼はこの地で雇った通訳ということだった。日頃、尾崎の傍らにあって、会話の遣り取りのみでなく、この地の職員との間も取り持っているらしい。

 今日は別に通訳の用もないことだし、休んでもらっていいよと言ったのだが、わざわざ日本から工場の見学にいらっしゃるというのだから、ぜひとも出迎えに行きたいという本人のたっての希望で、尾崎に連れ添ってハノイまで出向いて来たということだった。

 真向いに座を占めた尾崎が、グエンさんと呼ぶその小柄なベトナム人の男は、さっきフエ行きの切符を買っている間も、今こうしてフエに向う列車の中にあっても、口数はさほど多くはなかった。しかし、終始朗らかであり、安岡への対応はその瞳の様子からして、それは親切なものであった。

 動き出した列車の中で、ベトナムの鉄道の硬めの椅子に、安岡は少しばかり乗り心地の悪さを感じながら、隣に腰を降した尾崎からまずはこの出張中の予定を聞いた。

 ああ、良かった……。

 少しばかり吃りがあって、それでも相変わらず早口に話そうとする尾崎の説明を左の耳に聞きながら、安岡は心の中で本当にそう思った。

 この人はだいぶ元の状態に戻ったな。あのベトナムに行く直前の虚ろな表情からは、今は比べものにならないほどだ。以前のように頬にも紅味が差して、それに体重もほとんど元気な頃に戻ったようだ。

 ――この人にとっては、こっちに来て、ほんとうに良かったんだ。

 窓の外には、広大なベトナムの農村が展がっている。先程からずっと途切れる間もなく、隣では尾崎がベトナムでのこの一年に及ぶ滞在について語っている。

 ベトナムの空ってこんなに低いのか。左肩に聞こえる尾崎の話に耳を傾けつつ、安岡は眼の端では途中から、この異国の地の景色を追っていた。

 波立つ稲穂のすぐ真上にあって、流れゆくこともなく、分れることもなく、ずっとそこにあり続けているかのような二つ、三つの雲の佇まい。安岡にとって、初めて見るベトナムの空の風光は数奇なものであった。

 だが、まこと安岡の心に貼り着いて離れぬものは、ベトナムの風景のことばかりではなかった。前に座を占め、終始微笑を絶やすことなく、じっと二人のやり取りを見守っているグエンの事である。

 先刻、ハノイの空港で思いがけず尾崎の隣に立つグエンを眼にした時から、安岡はなぜか、小柄なこのベトナム人の男に深い親しみを覚えた。一年ぶりに邂逅した尾崎と、列車の中で互いの近況を報告し合っている間も、安岡は心の片隅ではずっとその理由を探っていた。

 ――なぜだろう。なぜ、この男が、自分の心にこんなに近しいのだろう。

 晴々としたその笑顔の所為ではない。心から親切に接してくれていることがよくわかる、その物腰からだけでもない。

 これまで一度も会ったことのないこの異国の男に、これほどの親しみの情を感じるのはいったいなぜなのか。安岡は一刻でも早く、自らの心の内に灯ったこの想いの萌す訳の先を知りたかった。

 いつしか安岡は、稲穂立つ田畑の上に低く棚引く白い雲の群にじっと心を傾けていた――。

 気が付くと、すでに話すことを止めて、手持ち無沙汰にしている尾崎の様子が肩越しに感じられた。申し訳ないと思った。しかし、あらためて尾崎の方へ向き直り、彼の話をまた聞く気にもなれなかった。相変わらずにこにことこちらに微笑を向けているグエンという男の事が、どうしても安岡の頭の中より離れないのであった。

 眼は雲を追いながら、安岡はグエンの方に話し掛ける機会を探っていた。

 グエンとの話の接点を、様々に頭の中に想起させていた。それにまず、このグエンという男が通訳といいつつも、どれほど日本語を解するのかも定かではない。すると肩口から、尾崎の声がした。「グエンさんの故郷のホイアンも、こんな感じの風景なの?」

 グエンは尾崎の方に顔を向けると、いっそう口辺を丸くした。「いいえ、こんなに畑は多くはありません。特に私の育った場所は、町の中心でしたから、人もお店もいっぱいありました。でも、ハノイほどではありませんよ。今のハノイはちょっと都会になり過ぎました。ホイアンには今でも自然が多く残っています。ホイアンは、人が住むにはちょうど良いくらいの町ですね」

 グエンは安岡の方にも目で意を配りつつ、さらに言葉を継ないだ。「いまフエには、日本の会社がたくさん来ていますね。でもオザキさん、御存知ですか? 私の故郷のホイアンにも、日本人町というのがあるのですよ。ホイアンは、日本が鎖国をする前、江戸の幕府と貿易をやっていました。私の実家のそばには、その頃、日本人の手によって造られたといわれる橋が今も残っています」

 じっとグエンの話に聴き入っていた安岡の顔には驚愕の色が浮かび、身体は真っ直ぐにグエンの方に向き直っていた。

 そっとこちらにふり向けられたグエンの視線が、安岡には、窓外から差す陽差しのように暖かく感じられた。「黒い石で出来た橋です。すごく古いものですね。子供の頃、私は祖父から、これは三百年以上も前に出来た橋だと聞かされました。アーチの形をした、とても綺麗な姿をしています。屋根も附いていて、瓦も乗っているんですよ。少し遠くから眺める橋の姿は、本当に美しいものです。小さい頃から私は、日本人が造ったその橋がとても好きでした。特に川の流れの上に立っている橋の姿が好きで、少し離れたところから飽きもせずよく眺めていましたよ」

 それは、さながらグエンの瞳の中に橋の姿が映っているかのようであった。「ヤスオカさん、その橋の屋根の下は、冷たくてとても気持ちがいいんですよ。子供の頃、よく橋の中に入って遊びました。夕方になると、真っ暗になってすごく怖いのですが、それがまたスリルがあって、友達とよく橋の中に入って遊んだものです。ホイアンの町がフェスティバルの時は、橋に何本もの提灯が掛けられます。夜になると、提灯の灯りが川に映ってとても幻想的な雰囲気になるのです。フェスティバルの晩には、橋のたもとに腰掛けて、川に揺らめく提灯の灯りをずっと眺めていました……」

 安岡は瞠目した。そこで、思わず口を突いて出た。「グエンさん、グエンさんはそれだけの日本語をどうやって……」そう言い掛けて、安岡には、なぜだか一抹の寂しみが込み上げて来た。その寂しみの昇って来る理由は、グエンの話から脳裡に浮かんだ、異国のホイアンという町のフェスティバルの夜に灯るという灯りの所為ばかりではなかった。

 にっこりとほほえんで深く頷き、グエンは安岡の問い掛けを引き取った。「日本は、私の憧れでした。戦争のことで、日本人のことを悪く言う人たちも、たしかに私の周りには多くいました。でも、私はあの橋が好きでした。あの美しい橋を造った日本人が、悪い民族だとは私にはどうしても思えなかった。ヤスオカさん、私は、ホイアンのあの日本橋を見ながら育ちました。穏やかな姿で、川の中に黒い影のように深く佇む、あの石の橋を造った日本人は私の憧れでした。幸い私の家は、裕福というのですか、お金のある家でした。ですから私には、ホーチミンまで出て、大学で日本語を勉強するチャンスがありました。大学を出たあと、しばらく政府で働いていましたが、十年くらい前から、フエに日本の会社がたくさん来るようになって、希望して、私はこうして日本語の通訳としてフエで働くようになったのです」語り了えたグエンの瞳は、そういうことなんですよ、と優しく安岡に向けられていた。

 視線を尾崎に転ずると、「フエにはオザキさんのように立派な日本人がたくさんいます。フエに来ている日本の人たちはみんな真面目でよく働きます。一緒に働いている私たちベトナム人にもよく気を使ってくれて、実に優しい。やっぱり日本人は素晴しい人たちだと思いました。だから、日本という国は、礼儀正しい人の多い、とても良い国にちがいありません」そう言うとグエンは、安岡と尾崎を交互に見て、じっと微笑をふたりに返した。

 優しく見つめて来るグエンの眼に、安岡は返す言葉も見つからず、覚えず目を逸らせた。

 安岡は、窓外に低く垂れ込める雲の群れにふたたび眼を転じた。しかし、心の内では、もはや空に懸かる雲の群れを追っているわけではなかった。

 目の前のこの男の語るところがひとつひとつ身の腑の内に沁みて来て、この男の想いに自らの想いを重ねて、なにやら言いようもない重苦しい塊の様なものが、蹲るようにして身の底に沈んでいるのを感じていた。

 安岡はよく晴れた異国の空の下で、揺れる稲穂に眼を遣りながら、前に座るグエンの態度のことについて考えた。この男には、自らの心の内を包み隠さず実直に語って余すところがない。また、その心の内を相手に正しく伝えようと誠実に語り掛けて来て余念がない。それでいて、相手に同意を強いる風でもなく、語る合い間に、ただ優しげな視線を向けて来るだけだ。

 およそこの男には計らいといったものが感じられない。心の内に何も余計なものを持っていないから、接していてカラッと雲を払った、日本の秋の空のような風情を感じるのである。

 心の内がまた見事にこの男の顔付きになって現れており、得も言われぬ懐かしい空気を纏っている。そして、想いを伝える日本語のなんと流暢なこと。思いに耽る安岡の面にはいつの間にか、グエンと同じ様な穏やかで優しい微笑が浮かんでいた。

 安岡の面を映した窓の向うには、黄金色に輝くベトナムの平野が広がっている。遥か遠く平野のその懸かりに、空から吊り降ろしたかような大きな鋼の陸橋が姿を現した。

 先刻、前に座るこの男は、日本は礼儀正しい人の多いとても良い国にちがいないと言った。だが、この男は、今の日本という国を直接視たことはない。今の日本という国の姿を、はたしてこのように語る彼に見せられるであろうか。

 もしこの男が、今の日本の姿を目の当たりにしたとして、はたして先程と同じ事を口にするだろうか。窓に映じた自身の顔に気付いた安岡の瞳には、辛気臭く、眉間に皺を寄せた自分の姿が映っていた。

 列車が鉄橋に掛かった。

 ふと見ると、向うの岸に小さな人影が揺れている。子供たちであろうか、なにやら列を成してそぞろ歩いて行く姿が目に入った。二組、三組、いや、さらにあとからあとから土手に登って歩を進めてゆく子らの姿が続いて来る。みんな小学生くらいの幼い子供たちだ。

 それが一様に、背中にもっと幼い児らを背負っている。背負う子も背負われる児も、みんな屈託なく朗らかに笑っている。突然、思いも寄らぬ光景を目にして、安岡の全身の神経が子供たちの一群に向けて一身に注がれた。

 身を乗り出したときには、子供たちの列はすでに眼下にあり、何事かと見極める暇もなく、安岡を乗せた列車は、子供たちを置き去りにして過ぎ去ってゆく。安岡は身を翻して、窓に貼り付くようにして子供らの姿を追った。

 凄いものを見た、と識閾下の意識がささやき掛けて来た。微笑みを投げ合いながら、列を成して歩いてゆくその子供たちのいる岸辺には煌煌と陽が降り注いでいた――。

「ヤスオカさん、気になりますか」背後からグエンの声がした。思わず安岡はグエンの方に向き直った。安岡の仕草から、グエンが察したのだ。

「日本では珍しい事でしょうね、あの様な風景は。この辺りは、ベトナムの中でもさらに貧しい農村地帯です。背中に背負っているのは、彼らの弟や妹たち、あるいは隣の家の幼い子供たちです。ちょうど学校からの帰り道でしょう。学校まで連れて行って、彼らがあの幼い子供たちの世話をするのです。彼らのお父さんやお母さんは、昼間は畑に出て働かないと生活が出来ません。彼らのおじいさんやおばあさんが、幼い子供たちの面倒を見られればいいのですが、多くの家ではおじいさんやおばあさんも畑に出て働きます。ですから、幼い子供たちを、村ぜんたいで助け合って世話をしています。昼間、世話をする者のない家では、あのように近くの家の子らに幼い児を預けるのです。あの中の何人かは、そのようにして預かった隣の家の子供たちを背負って、学校まで行っています。ヤスオカさん、どうですか、不思議な風景ですか? でも、この辺りの子供たちにとっては、あれは当たり前の現実です。けっして珍しいことではありません。自分たちが幼いにも関わらず、子供たちはあのようにしてさらに幼い児らを背中に負って学校に行き、勉強をして、そして連れて帰ります。家に帰ってからは、お父さんお母さんの畑の仕事を手伝います。この辺りの村では、そうした事が子供たちにとっての日常です。でも、そうしなければ家族が、生活できないことを子供たちはよく判っています。ですから、ヤスオカさん、心配はいりません。あれは、決して悲しい光景ではないのですから……」そう言いながら、グエンはまた、安岡に向ってにっこりと微笑み掛けていた。

 空にはもう、すっかり雲はなかった。天と地の間の薄絹が降りているようなはんなりとした空気の中に黄金色の穂が右に左に揺れていた。

 暫しの間、安岡は天からの陽のたおやかな切れ間に、ガラス窓に時おり姿を現す自分の相貌を見つめていた。真剣な眼差しの中にも、すっきりとした微笑みの浮かんだ自らの顔に向って、心の内でこのように何度も呟いていた。

 ――ああ、あの時の眼だ。

 いま安岡は、はっきりと了解していた。前に座るこの小柄な異国の男と初めて接したときから感じていたある不思議な親しみの情。その親しみの情の兆す理由を、安岡はいまはっきりと了解していた。

        ―――――――――――――――――

 その人は、芯から寂しそうだった。

 少年が、「別にひとりでもいい……」と言ったときのことだった。

 二週間ほど前、この山間の町に越して来た少年は、放課後、校庭の片隅の廊下から、皆がしている野球の様子をひっそりと眺めていた。そうして暫く時を過ごしたあと、ひとりで家路に就いた。

 二週間というもの、教室の男子の誰からも、「おい、一緒に野球をやろうよ」と声を掛けられることはなかった。ひとたび噛み合わずに走り出した歯車は、互いに接点を見出せぬまま迷走しているようだった。少年は、授業と授業の休みの時刻も、誰かと口を利くでもなく、ただひとり机にあった。

 その日の放課後、少年はまたひとり校庭の隅からぼんやりと、皆が楽しげにしている野球の様子を眺めていた。すると、背後からすっと声が掛かった。驚いて振り返ると、担任の教師が微笑んで立っている。少年は、訝しげにその人の顔を見上げた。

「おい、どうした。みんなと一緒に野球をしないのか、安岡――。いっしょに野球をやりたいんじゃないのか? どうだ、おれと一緒にみんなのとこ、行くか……」

 少年は、すぐさま激しく首を横に振った。「べつにひとりでもいい!」それだけ言うと、俯いた。

 目の前の地面には、自分の後ろに立つ教師の影がまっすぐに伸びていた。影は、ほんとうに大きかった――。影はしばらく身じろぎもせず、深く地に佇んでいた。次の瞬間、影はゆっくりと回って来て、少年の前で小さくなった。

 腰を降すと、その影は暫く、なに事かをじっと考える様に膝頭に組んだ手を見つめていた。それから、ゆっくりと顔を上げると、じっと安岡の眼の奥を見た。それは優しく、しかし、寂しい眼だった。

 その人の背後では、楽しげに駆け回る子供たちの姿が、すでにもう遠かった。

        ―――――――――――――――――

 ――でも、厳しかったな。

 今も眼に浮かぶあの時の先生の眼は、とても凛としたものだった。静かに、されど毅然と、こちらの心の内を覗いていた。

 あの時、それまで父にも母にも感じたことのなかったある親しみを先生に感じた。

 ――そう、あの時の先生と同じ眼だ。

 それは、小柄なこの異国の男を初めて見たときから、安岡の心に澱のように降りて離れなかったあるものが融け出して流れて行った瞬間だった。

 ――ああ、あの時の先生と同じ眼だ。

「おい、安岡、もう着くぞ! フエの駅だ。」

 不意に、背後から声がした。尾崎の声だった。

 振り返ると、グエンは、すでに荷台から安岡の黄色いトランクを降して手に提げて、にっこりと笑って立っていた。

 

 ――今日はぜんぜん混み合ってないな。

 ホームに入って来た赤に白いラインの特急列車の車輛を覗き込みながら、ひと目見てそう思った。そう思いながら、安岡は今日が週半ばの平日であったことに初めて気付いた。

 指定された二輛目から入り、ドア先の手荷物置場に手に引いていた黄色いトランクを優しく置いた。向き直ると、内側のドアがすっと開いた。ほとんど人気の無い車内がざっと見渡された。

 手にした券の席へと両側の上部左右の席番に目を配りながら歩を進めた。宛てがわれた座席まで来ると、そこにはすでに年恰好からして二十歳過ぎと見受けられる若い男がひとり、耳から白いイヤホンをぶら提げて足を組んで、口にはスナック菓子を頬張りながら腰掛けていた。

 安岡は、瞬時に状況を了解した。一度は、座席上の番号と手にしている券番を確認する仕草を見せ、次には、「ここは二号車の二十四番ではありませんか」と腰を低くして問い掛けた。

 安岡の問い掛けに男は、何らの一声も発することなく、視線すらも動かすこともなく、座ったままの姿勢からさっと身を翻して席を蹴って去って行った。

 余りの慮外のほかに、安岡は男が去ったあとのシートに暫し眼をくれた。そして、ふっと一つ大きくため息混じりの笑みをこぼすと、片方の手に提げていた鞄を手前の座席に置いて、奥側の座席にゆっくり腰を下した。

 目の前の座席ポケットには、飲み掛けのペットボトルが差し込まれたままになっていた。今度は、安岡は多少憮然とした様子でボトルを抜き取ると、横の座席ポケットにボトルを移し替えようとして、中にある飲みかけの液体が目に付いた。

 安岡は席を立った。後部座席斜めに、安岡から少し離れたところで、また席を占めていた若い男にすっとペットボトルを差し出した。

 耳に世間から蓋をしたイヤホンを外すこともなく、瞳を上げて安岡の方を見ることもなく、青年はただ無造作に安岡から自分の飲み掛けであるペットボトルを受け取った。

 窓の外は小止みの薄曇りである。安岡は見るともなく、どんよりと地の底に沈んだこの街の風景を眺めている。

 時折、窓のガラスに自らの相貌が映っては消えてゆく。浮かんでは消え去る貌の眼差しのあまりの険しさに、安岡は覚えずどきりとした。

 ――傍目には、おれの顔はこんなに厳しく映っているのか。

 薄日と曇雲の狭間で、ガタンと揺れる車窓に浮かび上がって来る己の相貌をつとめて見ぬようにしていると、外にはどこまでも灰色に澱んだ現代のこの国の姿が広がっていた。

 また、ゴトンとひと揺れした次の瞬間、安岡は列車が間もなく鉄橋に差し掛かることに気付いた。覚えず身を乗り出し、ひときわ大きなその橋が懸かっている堤防の向う岸に眼をやった。

 列車が橋を渡って行くほんのしばたきの間も、安岡の見開かれた眼は、全身で川の向うの岸に注がれ続けた。

 薄曇りの街の空の下、その岸には、ただ灰色のコンクリートと薄暗い温気のみがじっと沈んでいるだけであった。

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