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【エッセイ】武士の矢面

 武という漢字がある。武士などと戦(いくさ)のイメージが強く、戦闘を想起させる文字である。しかし本来、この字の由来は弌(ほこ)を止める、すなわち戦うことを治めることだという。だから、武士とは戦うことを鍛錬して、戦うことを修める境地に至った人士のことである。事物を治めるにはまずその事物をよく鍛錬して身に付け、事物の内奥に深く分け入って道理を知らねばならない。さもなければ、対処の仕様も不明だからである。そのため古来、道と言い習わされる事物には蔦のような稽古の跡が連綿と受け継がれてきた。
 過日、クレジットを紛失した。家に帰ると、いつも入れてある財布のポケットにカードがなくて蒼ざめた。使ったその時に始末を見直さなかったこちらの不首尾である。心当たりはすぐにあった。夕暮れの帰途、二駅前で下車して立ち寄る処があり、帰りに駅前の小店で少々買い物をした。その時に出したのが最後だ。あの店辺りで落としたに違いない。急ぎ取って返して、店に出向いて直接問い合わせた。買い物に応対してくれた店員は委細を承知せず、周辺を何度も探して廻ったがカードは遂に見つからなかった。
 三日ほどして連絡してあった会社から電話が入った。不審な買い物がなされているが如何かと。直後に、駅前の交番に出向いても届けられていなかったので、覚悟はしていたがやはりそうだった。カード会社の調査によると、すでに三万円ほどが使用されていた。拾得者は実質二日の間に、三万円程度の買い物をしたことになる。それも駐輪場の支払いやヘッドレスイヤホンなどという、当座の思いつきのような買い物に使っていた。
 ローン会社はその電話の流れで、すぐに新しいカードを作ってくれた。便利な世の中だ。その便利さに身も蓋もなく乗っかったうえで想う。この便利さは幸せに背反していると。九十年代以降、特にネットの急激な普及で不可逆的に世の中の便利さが加速した。人の欲望は思い立った瞬間に満たされる。我慢という言葉をもはや使われない思想に葬り去った社会が到来した。
 一方で、物事を身に付ける稽古には、気の遠くなる我慢の要請がある。今や大半の人間は、そうした要請のある世界がこの世に存在するあるいはしたことすら知らないのだろう。想像できなかった便利さが訪れて、想像できる先にある自分を作る鍛錬という文化が崩壊した。その矢面にぶら下がってやって来たのは、何でも容易に手に入り、何ごとも安易に一線を越えられるボーダーレスだった。だから、ジェンダーもエイジも不詳な拾得者は、手にした瞬間にカードを自分の利益に使用した。同じ意識の中に、すぐ隣にある交番を探すという意図は初めから設定されてはいなかったのである。

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