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【小説】眺め

病室の窓から眼下に眺める楓の梢は、もうすっかり葉を落とした。
 つい二、三日前までは、構内を走るあの楓の並木には、まだ幾らか葉が残っていたのに――。
 ゆっくりと体を起こしながら、伏し目がちに洋子はそう思う。三日前に癌の手術を終えたばかりで、昨日くらいから、ようやく食事も喉を通るようになった。
 味も素っ気もないプラスチック製の卵色をしたお椀に、丁寧にきちんと、これも黄味色がかったプラスチックの箸を、椀の縁に揃えて置いて、雄一がそっと朝のお粥を渡してくれた。
 渡し終えると、サイドテーブルの上に洋子が読みかけにしてあった二冊の本を、トントンと両端をきちんと揃えて壁に立て掛け、雄一は洋子のお茶の準備を始めた。
 結婚して十五年になる。
こんなに優しくしてもらったのは結婚する前以来かしら――。
掌に椀の重さと温もりを感じながら、親指でしっかりと縁に揃えて置かれた箸を押えて、洋子は思う。
 この人、今回の私の入院がだいぶこたえたみたい。
「ねえ、家で一人でだいじょうぶなの?」
「ああ、大丈夫だよ。結婚する前はオレ、ひとり暮らしだったじゃない。簡単なもの作って、ちゃんと食べてるから。――それより、こんな関係のもの、読んでいいの?」
 雄一は、いましがた壁の端に片付けたばかりの本を眼の端で示しながら、サイドテーブルに少しばかり零したお湯をせっせと手拭いで拭いている。
 雄一が壁に立て掛けたので、「乳がん」と型崩れした文字で書かれて、乳房と麻酔針の写真をあしらった本の表紙がこちらを向いている。院長先生が貸してくれたものらしい。
「いいのよ……。私なんか、まだ、乳房が残ってラッキーだったんだから」
 向い側ではちょうど今、見るからに萎んで、骨と皮だけになってしまった老婆が、対照的に瑞々しくはちきれんばかりの水分を素肌に湛えた若い看護士に、カテーテルを取り替えてもらっているところだ。
 実は洋子には、昨日の朝から、ずっと気に懸かっている事があった。
昨日、明け方に目が覚めた。どうやらもう眠れそうにもなかったので、ベッドの中でじっと夜の明けるのを待っていた。そろそろ陽も出たかなとカーテンを手繰ると、すっと部屋の中が光と影の二つに割れた。向う側の壁に細長い三角錐の光の柱が立った。
 そして、ちょうど今、老婆が枕を背中に当てて少しずり上がっている、その肩口から上にずっと視線を持ち上げた辺り、三角錐の光の尖端が指す青白い壁の四隅に、蜘蛛の大きな白綿の円網が架かっているのを見つけた。
――あそこに、大きな蜘蛛の巣がある。
昨日の朝、その事に気付いてから、洋子は幾度その蜘蛛の巣に眼を遣ったことか。
 しかし、これから先、百万遍の目配せをしたとしても、そこに蜘蛛自身の姿を見ることはないだろう。そう感じさせるくらいに静かに、白いドーム状の巣だけが、ひとりひっそりとそこにはあるだけだった。
 思えば、ここはほんとうに静かである。
動かない世界というものもあるんだな、と洋子は思う。ここに来て、日常というものは結局、世界が動いているのではなくて、自分ひとりが動かない世界の中を、あくせくと立ち振舞っていたにすぎなかったんだな、つくづくそう思う。
 ここでは、何も動かない。
天井の白、壁の薄い青、そして真白なカーテン。たまにそのカーテンを手繰ると、一昨日までは、構内の枝に残った葉々の揺れを見ることができた。しかし、昨日からはもう、すっかり葉も落ちて、世界はほんとうに静かに動きを止めてしまった。暦なんて、ほんとうはこの世界のどこにも書かれてはいなかったんだ、そう実感する。
 雄一が、そっとお茶を渡してくれた。
 ここでは、また、音の世界が素晴らしい。
 サイドテーブルの上で、雄一がお茶を入れてくれる。罐を開けて、茶葉をその罐の蓋に目分量で取る。急須の蓋をそっとお盆の上に置いて、取った葉を急須の中に移す。ポットからお湯を注いで急須の蓋を静かに戻して、ゆっくりとひとまわり、またふたまわりと急須を回す。そして、そっと湯呑みにお茶を注いでいく。
 なんてことのない、日常の動作である。家では、いつも洋子が雄一のためにやってきたことだ。だが、急須をやさしく回す雄一の仕草、茶器のふれあうカタコトという音、ここではそうした何気ない日常の音が、洋子の心に染み入ってくる。
「もう一枚羽織らなくてもいいの? 寒くない?」
「大丈夫……」
「ゆっくりと食べててね。あとで、表の果物屋でなにか果物を買って来るから。それじゃあ、オレもちょっと、朝めしに行ってくるから」
 洋子が暖なお茶をゆっくりと口に運ぶ間、雄一は洋子の足もとの掛け布団の裾を直していた。
「わかった……」
こうしてお茶を飲みながらも、やっぱり洋子には気に懸かる。
――あそこに蜘蛛の巣がある。
ちらと目を遣ってみる。しかし、そこにはやはり、白いドーム状の円網が、ひとり静かに架かっているだけである。
 カテーテルの取換えが済んで、老婆がふたたび洋子の視界から消えた。
 ポーチを小脇にして、雄一の背中がすっと扉をすり抜けて去った。
 
 ふん、とかく、病人の感覚は研ぎ澄まされてきて鋭くなりやがる。
 昨日あたりから、あの女の発する気がびしびしとこちらに向ってやって来る。
 しかし、人間というものは、ほんとうに木が好きなんだな。これまでも、窓際のベッドを当てがわれた病人は、まずは構内の並木にその気を向けた。この女も、初めはそうだった。この病室に来てからというもの、窓から外の木の枝ぶりばかりを眺めていた。
 それが、昨日あたりから、木が葉をすっかり落としてしまうと、途端にこちらにその気を向けてきた。
 ふん、これでは、おちおち雌の物色にも出歩けないな。
 そう考えて、蜘蛛は苦笑した。
眼下の老婆は、俺の存在にいっこう気を向ける様子はない。しかし、向うの女は、まだ若いせいか、すぐさま俺の気配を窺い出した。
 そう言う蜘蛛も、今朝から、ずっと洋子の様子を窺っている。自分の身を隠すだけなら大きすぎるほどの巣を張り繞らし、その中にじっと独り雌伏し、網の目から漏れ来る朝の光にぼうっと青白く照らし出された住まいの中に潜んで、先ほどからの雄一と洋子のやり取りを、じっと独り見つめていた。
 何者かに見られていることなどまったく想いの中にない雄一は、病室に来るとすぐさま洋子の朝食の準備に取り掛かった。
――ふん、よく言うよ、まったく。こんなもの読んでいいのだって! ふん、露わな乳房の表紙を見て、お茶の支度をしながら、あんたいったい何を考えていた。後ろにいる看護婦の豊満な乳房と尻を存分に弄ぶ自分の姿だろ。その女の喘ぐ顔を思い描くあんたの心の中の映像を、俺はいっさい見逃さなかったぞ。女房が癌を患ったというのに、あんたの考えているのはそういうことか。だいたい人間というのは愚かなもので、外は着飾っても、心の中は疎かなんだよな! こうしていつもどこからか、じっと見透かされていることに気付きやしない。
 じっと見つめる蜘蛛の眼下で、雄一は手早く洋子にお茶を渡してしまうと、テーブルの上に少しばかり零してしまった白湯の痕を、素早く手拭いで拭い取った。
――しかし、病気をすると、人間の心の中というものは、だいたいが掃除をされて綺麗になるものらしい。ふん、おかしなことだ。この女もそうだ。自分の夫が隣で露わにナニを想ったかも知らず、いたって神妙なものだ。ひとり静かに、音の世界に想いを馳せているとはな。
 いまカーテンの隙き間から、すでに高くなった朝の光が、鋭利に巣の中を横切った。青白い住まいの内を、陽光が鋭く斜めに裂いた。
 羊水の中にいるような、青白さが薄明に翳んでゆく光と影の中で、若き傲岸を内に秘めた一匹の蜘蛛は、じっと気を腹に落として、洋子の様子をまだ窺っている。
 両手で持った湯呑みをそっとお盆に戻して、洋子はいましがた雄一の去って行ったあとの扉に、じっと眼を向けている。
 老婆が、三つ四つと咳込んだ。
 洋子は、布団の裾先に視線を戻した。そして、再び手に取った粥の椀には、先ほど雄一の手から受け取ったときの暖かさは、すでになかった。
――ははあ、そういうことね。あんたは、さっき出て行った亭主の背中に、ほかの男の背中を重ねていたわけだ! 夕暮れの交差点で、着古して色もはげ落ちた茶色の皮ジャンの背中が、人混みの中へと消えて行った。その男の隣には、白とピンクの装いのあどけない女の姿があった。ふん、あんた、死というものの現実の襞に触れたら、ここ二、三日、落ちてゆく外の枯葉を見つめながら、亭主ではなく、その皮ジャンの男の面影を追っていたのか。あんたが学生の頃、恋い焦がれた男ね。なるほど、そういうことか、あんたはね! ふん、やっぱりあんたも人間だな。
 
朝の陽光にすっかり包まれてしまった巣の中は、この時刻、真白い光でいっぱいになる。
 お膳をサイドテーブルに戻すと、洋子はさらに少しばかり、そっとカーテンを手繰り寄せて部屋に光を差し入れた。
 巣の中に一層細長く差し込んで来た光に、蜘蛛は独り眩しそうに、眼下に広がった窓の外の光景に眼を遣った。
 すると、そこには、すっかり葉を落とした楓の並木道を、薄手のコートの襟を立てながらポーチを小脇に抱えて、足早に表の方に向って歩いて行く雄一の後ろ姿があった。
 その雄一の背中を眼にすると、蜘蛛は瞬間、顔をしかめた。そして、すぐさま、視線を洋子に戻した。
 ベッドの上では、顔を微笑みでいっぱいにして、歩いていく雄一の背中を、身を乗り出してじっと瞳で追っている洋子の姿があった。

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