髙田賢三展にいってきた

新宿で近かったので、初台のオペラシティのアートギャラリーで開催されている髙田賢三展に行ってきました。

著名なファッションデザイナーで、2020年にコロナ感染が理由で、逝去されました。

私は高校生のころ、柳沢きみおというマンガ家の『原宿ファッションストーリー』(SAWING 改題)を読んで、髙田賢三というデザイナーの存在を知りました。そこで、彼のサクセスストーリーについて、初めて知ったのです。

1939年に姫路市で生まれた髙田賢三は、神戸外国語大学に進学するも中退して、文化服装学院に再入学します。おりしも、男子学生が入学を認められた翌年のこと。このとき同級生だったデザイナーには、コシノジュンコ、金子功(ピンクハウスを作った人)、松田光弘(ニコルというブランドが有名です)らがいたそうです。

当時、コンテストの登竜門だった装苑賞に、何度も応募し、1960年上半期の作品群の中からリズムミシン賞(佳作みたいなもの)に選ばれますが、大賞は同級生の小篠順子さんで、悔しい思いをしたと言います。このときの候補作をざっとみると、三宅一生さんの作品もあって、選評でかなり辛口コメントされているのをみることができます。

1960年下半期の装苑賞で、髙田賢三さんはやっと装苑賞を受賞します。その経歴をもって、秋葉原にあった「ミクラ」に就職、その後すぐに「三愛」に転職、1964年には半年という休暇をもらってパリに船旅で旅行に出かけます。帰国前に、デザイン画をドロテビスやルイ・フェローのもとへ持っていったら、買ってくれた。しかも、まあまあの値段で。それに気をよくして、しばらくパリへの滞在を延長しようと、いろいろやっていたら、そのままパリの人になっていた、というようなのです。

パリでは、デザイン画を売るだけでは生計を立てられず、当時形成途中だった『装苑』のパリ支局にお世話になっていたそうです。ただ、そうこうしているうちに既製服会社に雇われ、いくつか転々としたのち、1969年にギャルリー・ヴィヴィエンヌにアトリエをつくり、「Jungle Jap」という商標にて、製品を売り出すようになります。

「Jungle Jap」の製品は、人気になりました。そして、すぐにアメリカへの展開が始まるのですが、ここで「Jap」という名称が、日系人団体の抗議に会います。裁判の結果は、「感情の問題」ということで、法的責任には問われなかったのですが、しばらくはこの「Jap」という名詞をアメリカ向けには使わなかったようです。

1970年代前半、服にもコンフォタブルなものを求める傾向が強くなりました。その波に高田賢三さんのクリエーションはうまくのったものと言われます。着心地良く、楽しい服。そんなコンセプトを中心におきながら、各国のフォークロアファッションをデザインに取り入れて、エキゾティシズムに満ちたイメージを振りまきました。

1973年、文化相ジャック・ラングが、オートクチュール中心のコレクションシステムから、プレタポルテ中心のコレクションシステムへと転換するような方針を出したそうです。この辺のことはまた聞きなので、よくわかりませんが、そのあたりで、既製服の波を、上手に管理下においたということでしょうか。いずれにしても、今のパリ・コレクションの時間割が、70年代前半に整備された、というのは確かなようです。

70年代、髙田賢三はファッション界の寵児となりました。本人も、この10年はやりたいことがやれたと述べているように、髙田賢三のアイデンティティは、この時代にあったのだと思います。

「Jungle Jap」開始直後、経営に参画してくれたジル・ライス。このジルが、70年代後半に、徐々に髙田賢三との間に不和になりました。ジルを追放するために、賢三は弁護士と協議し、最終的にはジョルジォ・アルマーニにいたフランソワ・ボーフュメを新たな経営スタッフとして迎えました。

髙田賢三には、グザビエ・ドゥ・カステラという「パートナー」がいました。グザビエのことは、あまり、展覧会では話題になっていませんでした。サンローランにおけるピエール・ベルジェのように、本来は、もっと照明を当てるべきものだと思うのですが、一人ですべてをやったように描くのは、あまり適切でないように感じました。

1980年代の髙田賢三は、フランソワ・ボーフュメの差配のもと、ケンゾーオムやケンゾージャングルなど、様々な生産ラインをつくって、世界展開をしていく軌道に乗りました。国際的ブランド化の歩みに入りました。

展覧会では、この80年代の作品が、フォークロアのイメージでまとめられて、それはそれで魅了されてしまうのですが、時系列的な解釈を放棄しているように見えました。ファッションに時系列はない、という主張はわからないでもないのですが、自分のやった過去作品を踏まえながら新たなものを構想するのがクリエーターとしては通例だと思うので、まとめるにしても時系列的にならべてほしかったと思います。

ただ、服を着せているマネキンは、とても上質だったと思います。マネキンとトルソーでは、服を着せつけた時の、形が違います。案外そこが見逃されている(あるいは用意が間に合わない)展覧会も見受けられます。

80年代後半、ボーフュメとの関係も悪くなっていきます。これは『夢の回想録』(日本経済新聞出版社 2017)に書いてあったことなのですが、ベルナール・アルノーにKENZOブランドを売却するかわりに、ボーフュメの解任を確約させようとしたようです。けれども、契約書に個人名の記載はできないけど、紳士協定として希望に沿うようにする、という口約束で、KENZOブランドを売却したようです。

しかし、その約束は果たされませんでした。アルノーは、ボーフュメ派の社員も多いということで解雇はできず、クリスチャン・ディオールへと配置換えすることで、髙田賢三さんをなだめようとしたそうですが、しばらくの間、だまされたと思った賢三さんは、デザイン業をボイコットしたと言います。

一方、1990年にグザビエが亡くなり、長らくパターンを担当してくれていた近藤淳子さんが脳梗塞で倒れると、一気に賢三さんはやる気を失ってしまいます。90年代のデザインは、ある意味で自己模倣の気があるのは、そういうことだったのだな、と合点しました。

もちろん、展覧会に90年代のクリエーションは一つ(しか)ありませんでした。これは、代表ではなくなったので、そのクリエーションを寄贈することができなくなったということでもありましょうし、わざわざそんな自己模倣の時代のクリエーションを買うほどのことでもない、という判断だったのかもしれないですが、自己模倣の時代だからこそ、いままでやった何が「ケンゾーらしいのか」ということを再確認できる作品群なのだと思います。

髙田賢三さんが自由にやれた時代のクリエーションだけではなく、時代に押しつぶされながらもクリエーションを人の手を借りて行っていたものについても、本来であれば展示していただけたらと思います。私は、95年春夏から『Gap Press』の薄い版をあるところまでは持っているので、KENZOの90年代作品を一部でも見ることができるのですが、やはりエキゾチックでフォークロリックなイメージ、着やすさや堅苦しくないもの、自然由来素材への愛着、かわいらしさなどが、残すべきアイデンティティの核として抽出できると思います。

2000年春夏が髙田賢三さんのKENZOブランドでの最後のコレクションになりますが、そののちに就任したジル・ロジエのクリエーションは、自然由来の素材と着やすさみたいなものは維持されているものの、フォークロア性に基づくエキゾチズムについては、軌道修正をかけているように思います。

KENZOをやめて2年間、LVMHとの契約でデザイナー活動ができなくなっていた賢三さんですが、2002年に復帰します。その復帰に合わせて、2001年にヌードを披露するのですが、私は、この写真、とても良いと思っています。そんなゴタゴタから吹っ切れて裸一貫!というコンセプトが、明確に現れた、すがすがしい写真だと思いました。

もちろん、これは、展覧会にはありません。『夢の回想録』でしか、私はみたことがありません。この『夢の回想録』も、増刷されていないのか、Amazonでは妙な高値がついています。LVMHとのゴタゴタが、これほどまでに詳細に書き込んであるテキスト、ヌード写真も含めて、稀有な記録と思うので、是非増刷をお願いしたい。そして、こういう突飛な行動力が人間・髙田賢三だと思うので、「恥部」だと思わずに、展示していただきたい。

2000年代は、ある意味、注文仕事を色々してたって感じで、アテネオリンピックの衣装も、髙田賢三さんなのかな?そういった2000年代以降については、ちょびちょびな感じでした。

ただ、2000年代も「TAKADA」名義でブランドをやろうとしたら、すでに商標登録されていて、使えずに、おじゃんになったという話をされていたので、誰か知らないけどいやがらせのようなことはあったのでしょう。LVMHグループをやめるっていうのも、大変なことです。

世界的なデザイナーになるというのも、大変なことです。華やかなのは、ほんとに一部であって、それ以外は、なんやかや、と面倒くさいことばかり。

僕はパリが好きです。
もちろん僕は、服を作るのが大好きです。
きゅうくつな服は好きでない
あまり、かしこまった服もイヤですね
遊べる服、楽しい服……
素材も、木綿とかウールとか絹とか
できるだけ自然なものを使って
軽くて着心地のよい衣服、幸福な服を作るのが
僕のねがいです

『Liberte KENZO』(株ビジネスインデックス 1989)

これは、1989年の姫路城での凱旋ショーの記録本の中にあった一節ですが、良いものだと思って引用しました。

『夢の回想録』には、次のような文章もありました。

周囲からはそろそろ遺言を書けなどと勧められているが、なかなか決心ができないでいる。自分の死後を考えたら、「夢」が消えてしまうそうな気がするから。

『夢の回想録』p.204

一度だけ、晩年の高田賢三さんとすれ違ったことがあります。話を横で聞いていただけなのですが、すごく穏やかに人と接する方でした。裏表のある大人たちと接することの多かった時期、立派な人だなあと思ったことがあります。

誰でも例外なく、年は取るものだ。
でも、いつまでも夢は追い続けたい。
子どもっぽいと人から笑われてもいい。どんなときも、決して失敗を恐れず、果敢に挑戦する。何歳になってもイタズラ心を忘れない。そんな冒険心が私の人生と創造の原動力になっている。

『夢の回想力』p.202

賢三さんの夢って、なんだろう。世界中に認められて、ある程度は、物欲については満たすことができる人なのに、物欲を満たすことが夢でなければ、「夢」とは何なのだろう。

そんなことを思いながら、小雨の中帰りました。


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