二本松少年隊 〜Recycle articles〜
二本松少年隊とは、何か。
戊辰戦争の際、会津に進軍してくる新政府軍を食い止めるために、西側、東側、南側にある奥羽越列藩同盟に所属する藩が、戦闘を開始した。
長岡藩、磐城平藩、二本松藩。
その二本松藩に今の高校生、中学生くらいの年齢の男子で構成された一隊があった。これを、後世「二本松少年隊」と呼ぶ。
星亮一氏には、いくつか、二本松少年隊関連の著作があるが、この成美文庫から出た『二本松少年隊』の副題「物語と史蹟をたずねて」は、コラムと資料が充実しており、二本松市内観光のバイブルとも成りうる一冊である。
この本と、銘酒「奥の松」を携えて、独り二本松へ鎮魂の旅に出る、というのが、私の気分転換である。
それはともかく、二本松少年隊に戻ろう。少年隊の隊長は、少年ではない。けれども、22歳という若さで砲術師範をつとめていた人物が、隊長であった。
その名を木村銃太郎という。
木村は若いが有能な師範であり、若さ故に新しい考えにも順応できた。
変転の時代、新しい考えに順応できたからこそ、前線に出ることを余儀なくされ、あたら若い命を散らせてしまった存在は多かった。
とりわけ、戊辰戦争において、奥羽越列藩同盟側において、その傾向は強い。おそらく、木村銃太郎もその一人だっただろう。
少年たちが戦争を経験することを想像すると、辛い。
白虎隊にもまして、二本松の少年隊は、若い。
砲術を訓練していたということも、あっただろう。
二本松少年隊の場合は、実際に戦闘し、そして、戦死した少年たちも多かったのである。
もちろん、多いと言っても、二本松藩の少年たち全てが戦場に駆り出されたわけではないだろう。実際には、勇敢だったもの、有能だったもの、責任感が強かったもの、悲憤慷慨の度合いが強かったもの、やむにやまれなかったもの、等、色々なタイプがいたに違いない。
けれども、歴史は、そうした個々の動機まで教えてくれない。
木村銃太郎は、そうした少年たちの砲術師範であった。そして、二本松少年隊の隊長であった。「先生」と呼ばれるからには、若かろうと、怖かろうと、彼等を率い、責任を持たなければいけない。
彼等を救いたかったとしても、彼等が戦うことを選んだ以上は、その生死に責任を持たなければならない。
銃太郎が抱えた、彼等に対する責任は無償のものである。
この重く無償の責任を22歳で引き受けたことが切ない。
木村隊に狙撃された隊に所属していた野津道貫は後年、このように述べている。
二本松藩に、全体を俯瞰できる人物がいて、中間的指揮官にも、視野の広い人物がいれば、この戦闘でも木村銃太郎は生き延びられたに違いない。例えば、会津藩における越後口、田島口を担当していた山川浩のような人物がいたら、と思わずにはいられない。
けれども、無念なことに、組織的な戦闘を指揮する人物がいなかったのが禍いしたのである。
木村銃太郎は、退却のタイミングを間違った。そして、包囲に近い状態に陥り、左腕を負傷し、退却する途中に、第二の弾が、腰を貫通した。介錯を懇願、隊士の少年たちによって、首は持ち帰られたという。
負傷の度合いは、もはや当人でないとわからないのだが、残念なことである。
指揮官不在、ないしは、無責任であるがゆえに、若い有能な人物が命を落とす、という構図は、戊辰の世だけではない。
現代も、まさに、そうした無責任が横行する世の中である。
現代では、命まではなくさないだろうが、肝心要の重要な時期にやっつけ仕事ばかりやらされた結果、本来のポテンシャルを発揮できぬまま、終わる人物も多くいる。
もちろん、私のことではない。私は、この年まで、のらりくらりと生き延びてしまったわけで、どこかで、その「のらりくらり」を清算しなければ、などと考えて、その場所を探しているようなものだが、あたりを見渡せば、そうした死骸は山ほど転がっているように、私には見えるのである。
木村銃太郎が、隊士たちに守られながら、退却していたら、撃たれなかったに違いない。おそらく、責任感の強い彼は、若い隊士たちを守るためにしんがりをつとめたのではないか。
しんがりとは、長谷堂の戦いにおける前田慶次郎長益や長篠の戦いにおける馬場信春を引き合いに出すまでもなく、非常に難しい仕事である。退却戦を戦うことの難しさというのは、いつの世も変らない。そうして、被弾してしまったのではなかろうか。
責任というのは目に見えないものである。抱えている重みは自分にしかわからないものである。そして、責任を抱えているつもりで、まったく責任をとろうともしていない人物が、人の上に立って、その立場を利用して恣にしている。
隊長の木村銃太郎の戦死、副隊長の二階堂衛守(33歳)の戦死の後、隊士たちは戦う者、退却する者、様々な選択肢を選ぶことになる。
星亮一氏は、さりげなく、この一節を書いている。
こうした「大人」にどうしたらなれるのだろうか。「大人」になれなかった木村銃太郎を悼みながら、私は年齢的には大人になった今でも「大人」を捜している。
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