松井秀喜・昭和かよ・俺の読み方 ~チャールズ・ディケンズ「バーナビー・ラッジ」2~

トイレの鏡に映ったヨロヨロ歩く自分の姿をみて、先日女子野球代表との一戦でホームランを打った松井秀喜氏も、ベースを回るときにヨロヨロ走っていたから、いわんや松井氏をや、と思ったけれど、あれは脚をけがしていて、あんな走りになったとあとから知れた。

松井氏と私は同学年である。だから何だというわけではない。

1339ページ、人が死ぬ厚さ

集英社ギャラリーの造本は、とてつもなく分厚い。これを集めた人が個人でいるとすれば、なんとも広い書架をお持ちであるのだろう。全20冊。私は持ち歩いているけれど、電車の中で、しかも立って、この分厚い本を読んでいる姿は、おそらく奇人の類であると思う。

「昭和かよ」と川口さんならずともいわれてしまいそうだけれど、昭和にも、この重さを電車内で読もうとする人は、あまりいなかったのではないかと思う。席に座って、机に広げて、読む分厚さだから。

ただ、この集英社文学ギャラリー、私が大学生のころには、多少刊行されていた。イギリスⅡは1990年に初版が出ている。あのころは、全然関心がなかったけれど、巻末の付録が充実しているし、月報にも案外工夫が凝らされている。

イギリスⅡ、フランスⅣ、アメリカⅠ、アメリカⅢ持ってる

ディケンズの映画化作品一覧などが月報にあるけれども、こういうのをチマチマと覚えて、カルチャー・トークしたよね。今思えば恥ずかしいけど。三週くらい回って、今、こういうリストをみると、ただただパーツを埋めたくなる、そういう感じ。しかも、このリストは1990年で終わっているわけで、そのあとにも、ディケンズ関連の映画はつくられているという状況。驚くね。

古い時代のディケンズ原作映画
集英社の世界文学全集持ってると、それと同じものも入ってる

月報の中で、詩人の故・飯島耕一氏の書いている文章の中に興味深いものがある。耕一氏の父親のハーディアン(トマス・ハーディ好きというか研究者)である飯島隆が、帝大英文科を卒業後旧制新潟高校に赴任したときのことである。

ついでに言うと、まず温厚で地味でエピソードに欠ける父であったが、卒業後すぐ勤めた旧制新潟高校へ、昭和二年六月、自殺一カ月前の芥川龍之介が友人の八田新潟高校校長にひそかに別れにやって来て、その際、大学出たての父も一時間ほど、漱石鷗外の話を芥川から聴いたということがあった。

八田とは八田三喜のことだということは、ネット検索して知れた。ただ、八田三喜は、芥川が通った府立三中の校長先生で、生まれは1873年、芥川は1892年、「友人」というのは、飯島隆が受けた二人の関係の印象だったのではないかと。

だからこそ「ひそかに別れにやってきて」という部分がリアリティを帯びる。「ひそかに別れにやってきて」、恩師に頼まれてせっかくだから講演もやる、という感じがなんとも複雑である。といっても、今からアレします、と恩師の前で宣言する人もいないだろうし、すれば止められただろうから、「別れ」の印象はあとから考えて、ということなんだろうけれど、そういう雰囲気が芥川にあったのだろう。

そういうちょっとしたエピソードが、月報に書かれていて、なんとも、味がある。

付録も、細かく読んでいくと面白く、「追いつめられて」はエラリー・クイーンが高く評価した推理小説とか、「リトル・ドリット」はバーナード・ショーが「『資本論』よりも過激危険な本」と言ったとか、ハイハイ、そういうの聞いたことある、の豆知識がたくさん書いてある。

メイポール亭の酒場の常連であるソロモンが、未解決の殺人事件の話をすると、例の見知らぬ男は憤慨して、酒場を後にした。

雨が降ってぬかるんでいる地面だが、馬を駆って、これから夜中にロンドンまで向かうという。

酒場の跡取り息子であるジョーは、見知らぬ男を引き留めるが、まったく意に介さず出て行ってしまう。

見知らぬ男は、途中で、ある馬車とぶつかりそうになる。その馬車の男はゲイブリエル・ヴァーデン。鍵屋の主人である。見知らぬ男とゲイブリエルは、馬車の馬が怪我したどうかで、一触即発になる。

なんとか、喧嘩を回避したゲイブリエルは、奥さんから止められている酒場通いの誘惑を、さきほどの出来事があったために、抑えることができず、つい一杯と寄ってしまう。

見知らぬ男は、そのまま去っていった。

みなさんが、長編小説を読むときに、どのようにしているかわからないのだけれども、自分は頭の中のスクリーンに、小説の言葉から得られたイメージを投影して、画として見ながら、その画に必要ない言葉は、それはそれで取っておいて、あとで解釈しながら「画」に付随する情報として処理する、という手法をとる。

だから、今回の第二章は、鍵屋のゲイブリエルと見知らぬ男が、夜中に道で馬車がぶつかったかどうかでもめるシーンで終わった。

Youtubeで流れる事故動画とその後のいちゃもん動画のイメージに、鍵屋のゲイブリエルの人物イメージをはめ込み、見知らぬ男の人物イメージをはめ込む、という読み方をしている。

ディケンズは、こういう映像的な読みがしやすいので、映画化されるんだろうと思った。語りの調子や口上の部分を除けば、本当に映像化しやすいんだろうなと思った。文学的な前衛ではないけれど、いわば18世紀文学に対しては、圧倒的に19世紀的な作劇法に満ちているんだろうと思う。その勘所は、よくわからないままなんだけど。

そんな感想を、なんとも短い第2章を読んで思った。

長編読むときは、特に海外文学だと、最初は減速して読んで、物語の主変情報とか人間関係とか、掴まないと加速出来ない。

現代の日本の小説だと、同じ時空間に生きているから、あるあるを示す記号を自分の体験から補完しやすい。19世紀の外国文学だと、それがしにくいので、序盤、ゆっくり読むになりがちということか。

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