志賀直哉が見た大正の世相 2

「正義派」のあと、「清兵衛と瓢箪」、「范の犯罪」と立て続けに名作を書いている直哉。

「清兵衛と瓢箪」は、熱中する対象がある子どもと、過度な熱中ぶりに対して危惧する大人、という構図が印象的な作品だ。

志賀は、「正義派」にしても、「清兵衛と瓢箪」にしても、「范の犯罪」にしても、どっちともいえないアワイを形にするのが上手い。二項対立をお互いに裏返したりして、感情移入や反発し切ることをうまく外したりする。

それにしても瓢箪品評ブームが明治末期くらいにはあったのだろうか。

清兵衛は瓢箪に熱中する子どもだ。ただデカいとか、ただ形がいいというわかりやすい基準ではなく、微妙な違いすらわかっている。しかし、親はその才能に気づいていない。

ある時、清兵衛はとんでもない掘り出し物の瓢箪を見つけ、それに熱中し、学校にも持っていってしまう。しかし、教師に取り上げられて説教を喰らい、家にまで来られて、両親ともども怒られてしまう。そして、父親は清兵衛の瓢箪コレクションを壊して、捨ててしまう。

取り上げた教師が小使に瓢箪をあげ、小使がそれを売ったら、高値で売れた。小使はそれを黙っていた。しかし、買った瓢箪屋はそれをもっと高値で売り捌いた。

清兵衛は、自分の瓢箪コレクションがなくなり、熱意は冷め、今度は絵を描くことに熱中し始めた。親はそれにまた懸念を感じ始めた…。

私も熱中する方だった。ただ、熱中が長くは続かず、途中でやめてしまうことも多かった。熱中を突き詰めれば、マネタイズもできようが、清兵衛の美的センスを、センスがない親は発見できない。

よくやりたいことをやらせてあげて、というが、「やりたいこと」が反社会的なことだったり、投資に対してリターンが戻ってこなさそうだったり、結局のところ「やりたいこと」の幅は、社会的常識に合わせて限定されている。名声とかリターンとか、そういうものを踏まえて「やりたいこと」を選ばせるように、親は仕向ける。

それが悪いというわけではないが、若者の時は清兵衛に同情したけれど、49歳になるとさすがに親の気持ちもわかる。そして、生徒から取り上げたものをもらって売って黙っている小使のダメさもわかる。おそらく、一流選手を育てた親は、その道をある程度知っていたから、才能のありかをわかったんだろう。私がこれからゴルファーや体操選手に育ててあげようにも、その筋をよく知らないからやっぱり踏み出すのは躊躇してしまう。

好きを応援してあげるのは難しいというよりも、小市民的な合理性が歯止めをかけてしまう。だから資金が潤沢な家から大器が生まれるのだろう。潤沢ゆえに、それらを応援するだけの余力があり、かつセンスの有無を判断できる文化資本があるわけだから。

そんなことはまあどうでもよくて、「清兵衛と瓢箪」における大正時代を探そうとしてみた。瓢箪鑑賞ブームがあったのかというと、これはよくわからない。地域的なものなのかもしれない。なぜなら、瓢箪を取り上げた教師が、この地域でこんなものを、みたいな無理解の動機を説明する文章があるからだ。

「瓢箪」というキーワードで、読売新聞の検索をかけてみた。すると、1887年5月13日付に「[広告]瓢箪店開店/東京本郷田町 筒井源次郎」というのがある。筒井源次郎氏が、諸国の瓢箪を集めて、売る店を東京でも開業したそうだ。

そして、1888年7月29日付で「滋賀県の瓢箪作りが東京・入谷でも培養に成功」という記事がある。「江州栗太郡目川村」の「青木庄兵衛翁」は「本年愛瓢家の需めに應じて」、「入谷の地」で「培養」に成功しつつあったことが報道されている。

「愛瓢家」という言葉があるほど、瓢箪愛の人がいたのですな。大正というわけではなく、伝統っぽいけど。

明治政府の河野敏鎌も、そんな「愛瓢家」の1人で、1892年6月27日付の「明治紳士ものがたり 河野敏鎌瓢箪を愛す」では

「他の嗜好少なし唯瓢箪を愛す現今貯る所二三十の多きに及び其貴きもの一個百五六十圓に値するものあり敏鎌閑あれば之を匣中に出し其古色の蒼然たるを見、欣々として独り自ら喜ぶ敏鎌の瓢を愛すること此の如くそれ太甚しといへどもまた一滴の酒も口にすることを好まず」

と言われてる。

「愛瓢家」ヤバいっすね。

他にも1903(明治36)年2月23日付には「塩屋中将の瓢」という記事があって、陸軍中将塩屋方国氏も「二十年来瓢を愛する事に心を寄せ」ていて、「秘蔵の瓢数十種」ある中に「蘇東坡の手沢を存せし」ものとして「西本願寺神明院本如上人遺愛の瓢」は、「七八百の星霜を経て、色沢黒漆の如く、雅致掬すべし、是れ第一の珍品」と言われているそうだ。

「愛瓢家」ますますヤバいっすね。

それで、大阪がやっぱり秀吉由来で、流行地なんですかね。でも、「清兵衛と瓢箪」では、「浜通り」を清兵衛は歩いて、男の禿頭を瓢箪と間違えたりしているから、「商業地で船つき場で、市にはなっていたが、わりに小さな土地」で、「二十分歩けば細長い市のその長いほうが通り抜けられるくらい」と言われているから、どこなんでしょう。

(追記)尾道らしいですね。イメージとしては瀬戸内の広島かな?と思っていたんですが、論文で、方言の志賀の手直し部分を尾道の人に聞かせたら、尾道弁を指し示したというので、尾道ではないかという面白いものがみつかりました。

追記

「瓢会」というのが開催されて、自慢の名品を出し合うというのがあったようですね。1913(大正2)年1月26日付に「俳優の瓢会」というのがあって、「浅尾口右衛門会主」となって、「宮戸座の中菊で催し」たらしい。こんな感じの会が行われていたんですね。

10銭で買った清兵衛の瓢箪を、小使は50円で骨董屋に売り、骨董屋は地方の豪農に600円で売ったようで、大金ですね。大正時代の1円は現在の4000円っていってるくらいだから、小使は20万で売り、240万で骨董屋は豪農に売ったんですね。

志賀は、投機があまり好きではなかったんですかね。

また清兵衛は、芸術を愛した志賀を認めようとはしない父に対した自分の肖像なんですかね。

よくわからないな。

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