2023.08.03 〜思ったこと3篇〜

#読んではいけない #ネガティブ

最近、午後になると眠気がひどい。目につかないところでショートスリープするのだが、今日は激しく寝てしまったようだ。これはコロナの後遺症か、それとも加齢によるものか…いずれにしても言い訳にしかならないところが面白い。もともとそこまで仕事にモチベーションが高いわけではないので、このような状況になったとして、労働の量は変わらない。だから、別に変える必要はないとも思う。

みんな司会をするのが嫌なのか、人に司会を振ってくることが多くなった。少しはあんたも練習してできるようになれよ、と思うものの、会議で黙って過ごして人よりも多い給料をせしめている人物を見ると、「沈黙はカネ」とはこういうことを言うのだななどと、グースカ寝てる自分を棚に上げて、嫌味なことを思ってみたりする。

この暑さで寝不足にならない方がおかしいし、そもそも司会のために、コロナに感染しないよう、とりあえずマスクなどはして生活しているのだから、呼吸が困難になって、眠くなっても仕方ないだろう。会議で黙るあいつは口を閉じてるものだから、コロナにかかることもあるまい。いまいましい。

昨今の職場では、言い出しっぺが何かをやらされる。だから、アイデアがあっても言い出さない。やらされたことが評価にならないわけだから、やらずに裏方に徹しつつ、フリーライダーに見えないような振る舞いをしていれば、あいつは堅実なやつだと言う評価になる。どいつもこいつも目が節穴だなと思うが、人がグースカ寝ていることは目ざとく見つけるらしい。

ただ居るだけのイエスマンが何をやっているのかはよくわからない。人の補助に抜け目なく乗っかっていって、色々なことにいっちょかみしていることで、「やってるフリ」をしているようにしか私には見えない。会議でイエスと言う奴の頭数が欲しいから、コイツがここにいるんじゃないかと思われるが、まあ、私も普段は温厚なフリをしているので、その場では何も言わない。

先日、大ホールで、講演や研修の取りまとめ、および、司会を行なった。

司会というよりもMCと言った方がいいかもしれない。テレビ番組の生放送でMCをやられている方は、本当に激務だと思う。私も、最近、そういう役回りが多くなってきたが、得意な方だと思うけれども、慣れることはない。

大ホールといっても400人程度の会場である。400人を掴むのは容易ではないが、100程度なら、なんとかなる。今回は出演者の選定、時間調整、パネルディスカッションで絶対話してほしいことや振るだろう質問、そしてその順序など、かなり台本を作り込み、それを元に内容を詰めていった。成功したと思う。

やれるとこまでやって満足ではあるが、それにしたって大変である。一緒に組んでいた羅さん(直接の上司「ある会社の人間模様」シリーズ参照)も、風間くんも、結局何もやらずに放り投げてきて終わった。まあ風間くんは、生まれた子どもの検査続きで、病院に付き添わなきゃいけないという役割があってのことなので、文句は言えない。「だったら、別の奴をつけてくれよ、羅!」と思ったが、手の空いている男はいささか頼りないので、むしろ逆効果という判断が働いたのだろう。

ただ、これはまだ三分の一。ここから金曜日、土曜日が怒涛の日程なのである。木曜日(今これを書いている日)は少し時間の空いている日ではあるが、別件の書類を読んだり、金曜日の準備もある。ゲラも確認しないといけない。

一人で、こうした会を運営するのは、まあ無理があって、出演者は今回10人いるから、一人一人への接待が間に合わない。何時に控室に入って、お茶お菓子を用意して、何時に会場に来てもらって、どこにどう座るか。この案内は、人を頼まないとできない。事前に言ってやってもらう、ということもあるが、話す内容に一杯一杯の演者だと、動きについて事前に伝えたとしても、覚えていられない。逆の立場になって、時間割がわからず、困惑した経験もあるので、私は割と細かく時間割を作っておく派だ。

例のイエスマンも、時間割をきっちり作る派ではあるが、時間割をそこから逸脱した時の目安にするのではなく、その時間割を守らせようとする人だ。守らなかったアイツが悪いと責任転嫁する。

一年の半分は6.30のはずですけれども、なんとなく7.31が終わると一年の後半戦が始まったような気がするのはどういうことでしょうか。

関係のない方には、見たこともない本かもしれませんが、『サステナビリティ審査ハンドブック』(2022)という本がありまして、企業が審査を通過する際に必要な観点が業界ごとにまとまっていて、とても良い本だと思いました。「審査の通過」という世俗的な観点を抜きにしても、サステナブルな企業であり続けるために、どのようなステークホルダーと関係を結んでいくのかが、これも業界別に整理して図解してあるので、大変わかりやすいものとなっております。

「お前、ブンガクとかワインとかレキシとかぐちゃぐちゃ言ってる側でサステナブルってどういうこっちゃ」と言われそうですが、本業、実践家ではありませんが、理屈の集積を必要とする場にわかりやすく落としていくという意味で、1/3はまあこういう業界の人でもあるのかなと思ってます。人に見せる顔は、分離しているところもあるので、こちらの業界の人には、ブンガクとかレキシの話は全くいたしません。

といいましても、開発でもないので、実際にサステナブル関連で関与しているのは、日本におけるその導入の流れを示して回るという知識面からのサポートに過ぎないのですが、それを論じるには世界でのサステナブル言説のことを知らねばならず、これは苦行のような積み重ねによって維持される知見でもあります。

最近話題になっているのは、カタカナで書くと舌を噛みそうな「クルエルティ フリー」の議論ですね。cruelty free。日本語に直しづらいですね。多分「動物愛護」に近く、ただそれだとローカルな知的コンフリクトの文脈に囚われてしまう恐れがあるので、「クルエルティフリー」の方がいい気がします。

昨今では植物における知性の議論もあるので、「愛護」では(人間の恣意性による)選別の基準が必ず争点になってきます。恣意性を除去しようとすれば、いわゆるディープ・エコロジーのような議論にもなってきます(人間が最も自然界の中で歪な存在であり、その抑制を行わなければならないというような)。それでは極端すぎる。私たちはいずれにしても他の命を奪わなければいけない動物ですので、私は「愛護」というよりも「適切な限度」を示す言葉の方がしっくりきます。自分が加害者になりうるという可能性を棚に上げた議論は、私はあまり好きではありません。

なんとも、朝から辛気臭いことを申し上げました。そういう仕事を振られると、どうしてもしばらくは頭がそっちに行って、戻ってくるまでは時間がかかるものです。

上の子の算数が、イマイチ奮いません。私も算数や数学が苦手だったものですから、教えるなりアドバイスをするなりの活動をしようとすれば、自分がまず理解する必要があり、それがままなりません。もちろん、そんなのは人生にとってどうでもいいのだ、という考え方もありますが、私はどっちつかずです。

算数や数学が得意だと言う夫君が多いようです。羨ましい。

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