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「119年前の11/26は、旅順要塞第三回総攻撃開始の日です。乃木第三軍の全将兵が一週間以上にわたりどのような死闘を繰り返したのか、壮絶な歴史に思いを馳せ、誠の感謝を捧げましょう」

119年前明治37(1904)年11月26日

日露戦争において、ロシアがその要塞構築力のすべてを賭けて盤石に作り込んだ近代要塞旅順に対して、これほどの短期間、寡兵によって実質4カ月余りで攻略を果たしたのは乃木第三軍の合理と合理を超えた全将兵の英雄的戦いによるものですが、このことが戦後司馬遼太郎の『坂の上の雲』によって大きく曲解されてきました。
見出しにした明治37(1904)年11月26日は、8月下旬に始まる第一回総攻撃、10月下旬に始まる第二回総攻撃に次ぐ、第三回総攻撃開始の日です。
最近記事にしました、下記記事に引用した「日露戦争と日本人」鈴木壮一著かんき出版においても、この第三回総攻撃については詳細に記されています。以下、旅順攻略戦仔細は「日露戦争と日本人」より引用します。

第三回総攻撃におけるロシア側の頑強な抵抗、攻略への明かりが見えず、、、

第一回総攻撃、第二回総攻撃において、前線のいくつかのキモに至る永久堡塁、半永久堡塁を奪取しましたが、これまで旅順攻略のキモである東北方面の三大堡塁である東鶏冠山、二龍山、松樹山はビクともせずロシア側に握られています。
この三堡塁を攻略した上でもっとも高い望台堡塁を奪取することで旅順要塞は落とす、というのが当初よりの攻略戦略であり、そこへの最終攻撃とも言うべき悲壮な決意のもとに第三回総攻撃が行われました。
それはこれまでより攻撃掘削路を堡塁近くまで構築し、正攻法による前進をした上でのことでもありました。

しかし、総力を投入した三大永久堡塁へのこの第三回攻撃は、またもロシア軍の強力な防御により阻まれるのです。
海軍のみならず満洲総軍からも旅順後の合流を命じられ早急な要塞攻略が求められている乃木第三軍の司令部は、この総攻撃失敗の状況が明らかになった11/27、どん底の闇夜のような憂色に包まれます。

二〇三高地攻撃

こうした中で、乃木第三軍司令官は、かねてより二〇三高地の攻略を主張していた第一師団(東京)参謀長星野金吾大佐に、その攻略の目途を打診します。
「第一師団(東京)参謀長星野金吾大佐は、
『いままでの攻撃は、二〇三高地攻撃のために、強大な牽制を行ったように見える。今から二〇三高地を全力で攻撃すれば、成功の見込みは充分にある。重砲の準備が整えば、第一師団(東京)は、ただちに突撃を敢行したい』
と即座に回答した。適切な判断である。
乃木希典第三軍司令官は、これを受け、二十七日午前十時、
『二〇三高地を攻略せんとす。二〇三高地を砲撃すべし。第一師団(東京)は、日没から突撃すべし』
と攻撃目標変更を命じ、午前十時三十分、二十八センチ榴弾砲四門が猛砲撃を開始した。」
そして、この後死闘に次ぐ死闘、新着の第七師団の投入をも乃木将軍は決断の上、なんと、この二十七日から十二月五日までの九日間という長時日を要しますが、西南部と東北部という二〇三高地のすべての占領を日本軍が果たすのです。
これが一次資料に基づいた二〇三高地攻略の事実であり、二〇三高地攻撃を決断したのは、乃木希典第三軍司令官であったのです。
「坂の上の雲」はここでも事実誤認を繰り返し、乃木大将及び第三軍の将兵の名誉を奪いました。
児玉源太郎満洲総軍総参謀長は、確かに旅順に来行するのですが、これは乃木第三軍司令官が新着の第七師団の二〇三高地攻略への投入を決断するとの報に接し、そのリスクの大きさから慌てて来たということで当たり前と言えば当たり前のことをしたに過ぎません。児玉源太郎が二〇三高地攻略の立役者というのは事実に基づかず司馬遼太郎の勝手なイメージに過ぎません。
そもそも、児玉源太郎は、旅順攻略は東北正面の永久堡塁=東鶏冠山、二龍山、松樹山及び望台を攻略せよ、との命令を、東京の大本営からの二〇三高地攻撃命令を拒絶しさえして、第三軍に出し続けていました。

二〇三高地攻略戦における闘魂なくば日本の独立は危うかった

この旅順攻略戦の中で、第一回総攻撃と第二回総攻撃、そして最終最後との決意で臨んだ東北正面の東鶏冠山、二龍山、松樹山の永久三堡塁への第三回総攻撃が失敗に帰したこの十一月二十七日というタイミングは先ほどもしるしましたが、第三軍将兵にとって、どん底の暗闇に中にいたというものでしょう。
日露戦争の中でもこのタイミングというのは、旅順が落ちず、第三軍が旅順に縛られ続け将兵を失い続けるという最悪の事態が脳天に想定されてくるタイミングです。そしてそれは同時に乃木第三軍司令官の中にも否応なく想定されてくるものでもあります。
そうした中での二〇三高地攻略戦決断であったのです。新着第七師団投入の決断であったのです。にもかかわらず、命じられた第三軍将兵は乃木大将の統率に揺るぎない信頼を確かに寄せていたのです。そしてこの統率への信頼無くして九日間のこの死闘を戦い抜くことなどできるわけがありませんでした。

旅順攻略戦は、日露戦争の大きな分岐点、戦いの天王山です。
そのなかでもこの第三回総攻撃の、十一月二十七日から十二月五日までの二〇三高地攻略戦が、まさに勝敗を分けたポイントオブノーリターンでした。あの困難な状況下、死闘に次ぐ死闘を戦い抜いた乃木第三軍の将兵がいなかったらと思うと、背筋が寒くなります。日本の国としての独立はおそらくなくロシアの属国となっていたと思われるのです。
これにより、海軍はバルチック艦隊の迎撃のための艦隊保守と砲撃訓練に十部な時間を与えられます。そしてこのあと、時間をかけて(約三週間でした)要塞直下までの坑道切削という要員犠牲を極小化した正攻法により、東北方面永久堡塁の奪取が実現し、ついに旅順要塞は陥落します。そしてそのことにより、なにより二月末からの満州での奉天大会戦に乃木第三軍約5万が参軍することができたのです。

乃木第三軍の将兵に深甚の感謝を

この旅順攻略戦の労苦を思えば深い感謝を新たにしなければならないと思います。
昨日11/26は、119年前そうした歴史が有ったのだということを改めて認識して、乃木第三軍の全将兵に深甚の感謝を捧げたいと思います。







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