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「小説 雨と水玉(仮題)(74)」/美智子さんの近代 ”準備完了と仕合せ”

(74)準備完了と仕合せ

美智子の作ってくれた鰆のムニエルは皮目がカリっと中はふわっとジューシーでビールに合った。
「美智子さん、この鰆はめちゃくちゃ美味しいねえ、さすが」
「ありがとう、ネタをばらすとね、良い魚があればムニエルにしてみなさいってお母さんから言われてたの。美味しくってよかったあ」
「お母さんの料理はとってもおいしいから、美智子さんはそれを受け継いでるわけか」
「今年から一緒にいるときはいつも台所で教わってきたから一応少しは料理ができるようになってると思うねんけど」
「ありがとう、そういうところ美智子さんって本当に美智子さんらしいね、ホンマに偉い(笑)。ぼくも実はね、料理はやりたいと思ってるんだけど、この鰆を選んだ目利きとカリふわ食感の出し方を教えてよ」
「あのね、焼き方は、塩コショウして小麦粉を鰆にしとくでしょ、それでオリーブオイルを入れたフライパンを出来るだけあつく熱しておくのね、そこに皮目から入れて順々に周りを焼き固めていくの。全体に焼き目が付いたら、ふたをして白ワインを入れて3分くらい蒸してやるとね、比較的カリふわになるねんけど。
今日のは良く出来ていると思う」
「なるほどね、理屈に合ってるねえ、すごい!
それで、今日はどうこの脂の乗った鰆を見極めたの?」
「それはね、お店の人に訊いた」
「そうか、なるほど」
「ほかの魚より鰆はわかりにくいから、売り出ししてる鰆やから訊いてもええやろと思って訊いてみた」
「なるほど、これも理に叶ってるな(笑)」

次の日は、午前中に大物の箪笥の搬入があると言うので土曜日だったが早めの7時に起床して朝食をトーストで簡単に済ませて部屋の片づけをした。
九時過ぎには大方の整理がついて、お茶休憩して待っていると、意外に早く十時過ぎには搬送屋が来た。搬送屋は手慣れたものでものの二十分くらいで搬入設置を完了して帰っていった。
「これで家具は全て搬入完了やね。なんとか間に合ったという感じするな」
「ほんまにご苦労様でした。啓一さんが引っ張ってくれなかったらここまで来れなかった。お疲れ様でした。ありがとう」
「美智子さんのおかげです。ぼくが引っ張ってきたとしたなら、それはあなたの人柄のおかげ。これからもぼくのこころに火をつけてください。よろしくお願いします」
「わかりました、これからも厳しく行きますから覚悟してくださいね(笑)」

そのあと十一時には家を出て、渋谷に向かった。昼食を軽く済ませてハネムーンのコースを調べに主だった旅行代理店を回った。目ぼしそうなパンフレットを持って喫茶店に入った。
大手のパンフレットには西海岸と東海岸のセットのツアーがあり、西海岸とニューヨークにいくのであればそれらから簡単に選べそうだった。中南部と東海岸の組み合わせは目ぼしいのが無く、それでもやむを得ないと思われた。
「美智子さん、どう?
ぼくは美智子さんがいいと思うもので構わない。これなんかでいいんじゃないかなあ」
「うん、ミュージカルが観れたらいいの、わたし」
「それはたぶんチケットを取ってもらえばいいだけの話だから大丈夫と思う。
そしたらこのツアーで代理店に行って訊いてみようか?」
「うん、でもこんなにお金使って大丈夫やろか?これから貯金せんとあかんと思うねんけど」
「美智子さん、そういうことを気にするところ、えらいと思うけど、お父さんもこのあいだ言うてたやん、一生に一度やねんからちゃんと行っときなさいって。後で後悔することがないようにちゃんと行っとこう!いいね」

代理店に行って事情を説明し、日程は9月、ブロードウェイのチケットを取ってほしいこと、もう一か所できれば中南部のニューオリンズを巡りたいこと、でも無理なら西海岸と東海岸の2か所で良いということを話した。担当者は、はっきりモノ言う性質で、出来るんじゃないかと思います、予算は希望の範囲内で行けるでしょう、ただダメな時もあるのでその際はすみませんが、検討しますので来週来てくれますか?と言う。
満足できる回答で、これで第一希望でなくても、これまでのすべての準備が決まってきたので啓一と美智子は二人して顔を見合わせて目配せした。

ひとまず用事が済んだので渋谷から表参道あたりを散歩して帰ることにした。街は梅雨の走りで曇りだったが気候は良く、人だかりの表参道もあまり気にならず、最後は明治神宮を参拝して原宿から渋谷に戻り、簡単に夕食を済ませて帰宅した。
「ねえ、啓一さん、今日は少しゆっくり晩酌でもしてみない?」
「ああ、いいね、ビール買って帰ろうか」

ビールを買って戻り、先に風呂を沸かして入ってから晩酌にすることにした。散歩したせいか、快い疲れが風呂の温かさで心地よく全身に回るようだった。啓一が出た後、しばらくして風呂から出てきた美智子がそそくさと着替えを済ませて台所で何かやり出した。啓一がビールを持っていこうか、と声掛けしてみるときゅうりを絞って酢醤油と和えていたのでそんな手間かけなくても大丈夫だよ、というと、これ、簡単だからと言い、2DKの居間のほうのテーブルへ、きゅうりの酢の物と昨日の残りのチーズとお新香と乾きものを持ってきた。
ビールにグラス、肴がそろったので二人して座布団の上に座った。
啓一は美智子の姿に改めてその愛らしさを思った。
お化粧をすっかり落とした美智子の肌はひときわしっとりとした色香がかおり、座布団を敷いて座ったところはすっきりと姿勢が良く重厚感のある臀部を際立たせ色めいて見えた。洗髪はしていなかったが後ろで結んだ髪から少し濡れたホツレ毛が白い綺麗なうなじを輝かせていた。黄色のTシャツの上に見える首筋から肩はなめらかな柔かい線を描き入浴後の火照りを発していた。
そして今日有ったことや近隣の買い物しやすさなどを取り留めもなく話し出した様子は、やっとのこと嫁入りの支度を終えることができた安心からなのだろう、これまでにない無邪気な笑顔に満ちていて、女性の仕合せが巧まずして現われ出ているようだった。

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