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「日露戦争旅順攻防戦/司馬遼太郎史観に騙されないで」

 この8月で、日露戦争の旅順攻防戦(1904年:明治37年8月~1905年:明治38年1月)開戦から118年を迎えます。司馬遼太郎の「坂の上の雲」は小説として書かれたと言え、史実に厳密ではありません。特に乃木希典大将の記述に関しては酷い偏見が見られ、「坂の上の雲」後の昭和年代は一時乃木大将愚将論が闊歩しました。

 その後、多くの歴史家の努力により、乃木愚将論の呪縛が説かれてはきましたが、改めて乃木大将の日露戦争における位置づけを私なりにまとめておきたいと思います。

 以下旅順攻防戦における乃木さんの活躍を追ってみます(奉天会戦については別途記すつもりです)。

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 明治38年(1904年)正月元旦、乃木将軍麾下の第三軍は総力を結集して旅順要塞を落としましたが、この旅順陥落はそれまでの西力東漸の歴史トレンドを劇的に変えるポイントオブノーリターンとなりました。15世紀末以降20世紀まで流れてきた西欧一辺倒の歴史の流れを変えたのは乃木第三軍による旅順陥落に他なりません。もちろん旅順陥落無くして近代日本の自存と繁栄も無かったと言えます。


 日露戦争は、旅順陥落無くして日本の勝利に帰することは永遠に有りませんでした。なぜなら奉天会戦に乃木第三軍の無い勝利は有り得ず、旅順に艦隊を束縛された状態で海軍による日本海海戦のバルチック艦隊撃滅は無いからです。

 しかるに大本営の旅順攻略作戦は拙劣を極めました。情報軽視の弊による敵戦力の大過少評価の上に尚且つ当初その攻略の必要性を認めておらず短い攻略期間に作戦目的が二転三転(旅順艦隊攻略、次に要塞無力化後北進満洲総軍合流)したことは大東亜戦争の失敗に通ずる日本軍の致命的欠陥とも言うべきものでした。ここにこそ旅順難戦の本質があったのであり、金輪際司馬遼太郎の言う乃木と第三軍参謀の無策などでは有り得ませんでした。


 むしろこのような困難な無理筋の状況の中で乃木第三軍将兵の英雄的奮戦により落ちたのが旅順要塞でした。


 そもそも大過少評価であった敵戦力は実は攻城側第三軍と兵員数において同等でした。要塞攻略において攻城側は少なくとも敵戦力の3倍を必要とするのが常識です。しかも守城側はもともと要塞籠城戦を得意とする国柄の露国であり、中でも名将コンドラチェンコにより設備、作戦共に徹底的に堅牢化されていたのです。将兵はこういう条件の中、明治37年8月第一回総攻撃において、甚大な被害を出しながらもその条件を超越して東北正面東西盤龍山堡塁、西北の大頂子山等を奪取する大奮戦をしました。


 ここにおいて、まさに予想を超越する第一回総攻撃の損害から第三軍司令部は塹壕攻撃路掘削による合理なる正攻法に作戦を切り替える決断をします。そこには大本営の無策をものともせず正論を貫こうとする井上少佐、今沢中佐、石川大佐ら気骨の実務家参謀と少数正当意見を敢然と決断した司令官乃木がありました。この決断が日露戦の死命を制したと言って過言ではありません。

 そして9月、東北正面においては盤龍山堡塁側背の龍眼北方堡塁並びに水師営堡塁、南山坡山堡塁を奪取し、西北は203高地は奪えなかったがナマコ山を奪うことができたことにより28センチ砲による旅順艦隊攻撃が実効あるものとなり、事実上10月末に露国旅順艦隊は無力化したのです。ここまでの経緯を見るだけで大本営や児玉源太郎の満洲総軍が二転三転する中でも第三軍司令部は要塞東北正面を主攻しつつ旅順艦隊攻撃のために西北を崩していくという方針を堅持していたことが明確です。


 そうして第三軍は第一次に続く第二次総攻撃の大奮戦によりさらに東北正面P堡塁を奪取しました。これら難戦はまさに言語に絶するものであったと伝えられます。そういう難戦がさらに降伏まで続くのです。


 しかしその難戦に次ぐ難戦において第三軍将兵は乃木将軍の統率力のもとに一糸乱れぬ戦いを貫徹したのです。続く11月末からの第三回総攻撃において敵精神の背骨を折る(ロシア側記録に明示されています)世に言う白襷隊による突撃、そして203高地奪取により海軍要請の旅順艦隊殲滅を確認し、さらには東北正面東鶏冠山、二龍山、松樹山そして望台の永久堡塁を次々奪取し、明治38年1月1日要塞司令官ステッセルをして降伏を肯んじざるを得ない状況に追い込み旅順要塞の無力化を完遂しました。


 西欧の軍事専門家から少なくとも三年は不落と言われた旅順要塞はわずか4カ月余で陥落したのです。その結果を齎したものはここで示したように、児玉源太郎でもなくましてや大本営でもなく乃木第三軍将兵の合理と合理を越えた奮闘によってに他なりません。繰り返しますが旅順陥落無くして日露戦争が日本の勝利に帰することはありませんでした。即ち二カ月後の奉天会戦に第三軍の無い勝利は有り得ず、旅順に艦隊を束縛された状態で海軍による五カ月後の日本海海戦のバルチック艦隊撃滅は無かったからです。

 東洋の非キリスト教国日本による対露戦争勝利は日本自身の独立を担保したのみならず植民地化され続けて来た非キリスト教の国々に引き戻すことのできない独立精神を呼び覚まし20世紀後半における各国の独立となって帰結していくのです。


 そう理解したとき、「1/1はただの元旦に有らず、旅順攻略戦を戦い抜いた乃木第三軍将兵全員に深甚の感謝」の祈りを捧げずにはおれないことがわかってきます。

 乃木さんは決して愚将などではありません。別途論じますが乃木さんはまた奉天会戦の決定的勝因を創りました。従って、乃木さんは古今に轟く名将中の名将と言うことができます。

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(以上については、「乃木希典-高貴なる明治」(岡田幹彦/展転社)、「名将乃木希典と帝国陸軍の陥穽」(鈴木壮一/さくら舎)、「乃木希典と日露戦争の真実 司馬遼太郎の誤りを正す」桑原巖/PHP新書、「乃木将軍は無能ではない」今村均/読売新聞昭和42年7月14日並びに西村真悟さんの論述に教えられた。)

https://www.facebook.com/shingo.nishimura.94



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