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「一技術者が仕事の意義について考えてきた一側面 エピローグ4」/法然、親鸞の仏教改革と新約の神 定年講演

本編「(4)近代とは、その1」で法然、親鸞の教えは、キリスト教の新約聖書と重なるのではないか、と述べました。

これはもちろん私自身の説ではなく、多くは今村均大将から教えられたことです。今村大将については、「智子、そして昭和」のエピローグで既にご紹介していますが、

浩瀚な回顧録を残されています。私は繰り返しこの回顧録を読み返しており、読んで非常に滋養のある回顧録ですが、その信仰に対する記述から多くを学びました。

大将は、戦時中、新約聖書と歎異抄(親鸞の弟子の唯円著)をポケットに入れ繰り返し読んでは指揮を執っていたということで、その深い信仰と軍人としての信念と実績から、第二次大戦中の色々悪く言われる陸軍の将軍の中でもとりわけ優れた軍人、将軍として、今に聖将と呼ばれています。
今村さんの統帥が戦後米国陸軍の幹部教育のテキストとされたことにも表れています。

今村大将については、いずれ別途マガジンを作成するつもりでいますが、大将は、仏教とキリスト教をもとに万教帰一を信念としておられました。
そして法然親鸞の教とキリスト教の新約聖書の教えを非常に類似性が高いものと理解されていました。
私も大将の著作からその信仰の深さを理解するとともに、倉田百三氏の「出家とその弟子」を繰り返し読むことである程度大将の言わんとするところを掴むことができたかなと思っています。倉田氏のこの書が、大正五(1916)年に出版され、戦前の旧制高校生のベストセラーであり続け、今日読んでも少しも色あせない現代性を持っていることは、結核で死を目前にしていた倉田氏の魂魄のたまものでしょうが、驚嘆に値すると思います。

今、私は、大将が教えてくれたように、新約の神と法然親鸞が信じた阿弥陀仏は慈愛の神として、近しいものと思っています。
(また、今村大将と陸士同期の、戦前の作家、山中峰太郎氏はその著作で、法然親鸞の信じたものとイエスの信じたものが同じだということを言っているとのことを大将の著作で読んだことが有ります。
今村大将自身の信仰に関する考え方については、直接には前記「今村大将回顧録」2001年3月20日新装版第3版では、P509、第七部 妄想・日暮れて途遠し に記載されています。)


この先、私自身死に近づく中でこのことについてはさらに学んでいくつもりにしていますが、
この仏教の宗教改革とも言える法然、親鸞を日本が持ったことは、本編でも述べましたように日本の近代化に大きな影響を与えていることは間違いないように思います。

以上です。






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