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「今村大将と昭和天皇の接点 その2」/第五師団長時代 南寧の大激戦

「今村大将と昭和天皇」で昭和天皇と今村大将の接点を『昭和天皇実録』から拾い出しました。そして、関東軍参謀副長時代に関する記事は既報しました。

第五師団長時代/ノモンハン迄

「今村大将と昭和天皇」で抽出した以下の3)、4)について『今村均回顧録』から引用し、記します。
3)昭和十三(1938)年十一月 第五師団長(中将)
第五師団長に任命され、昭和天皇より親補される。
4)昭和十五(1940)年四月 教育総監部本部長
第五師団長として南寧の大激戦を勝利し、嘉尚の言葉を賜る。

昭和十三(1938)年三月陸軍省兵務局長時に中将に進級、その十一月に第五師団長に親補されます。
第五師団長は、昭和十三(1938)年十一月から昭和十五(1940)年三月までの一年四カ月の間、務めています。
この間、当初広東に着任し、その後青島に移動し北支に転戦したあと、昭和十四年九月上旬にノモンハン事変への参戦命令を受け、急遽満ソ国境へ進軍し進出しましたが、体制を整えた直後に日ソ停戦協定が成り、第五師団は交戦せずに済みました。

南寧へ欽州湾上陸

このあと、第五師団は、米英が蒋介石軍への軍事物資援助を継続するルート、仏印と言われる今のベトナムから広西、広東へのいわゆる援蒋ルートの広西省南寧の拠点を扼せよとの参謀本部命令を受けます。

第五師団は、ノモンハンから満洲大連に戻り、一転南支南寧に向かいます。
この作戦は作戦だけに、行く先は第五師団内部にも秘匿され、船上で将兵に作戦を告げられます。

十一月十一日一旦海南島錨地に集合し、第五師団の属する第二十一軍司令官との打ち合わせ後、十一月十三日に南支欽州湾上陸を目指し出港します。
しかし、十三日から付近は暴風雨に包まれ、第二十一軍司令部は上陸を危惧しますが第五師団の各部隊長は士気旺盛であり敵前上陸はこういう時、今しかないとの意志を示し、暴風雨の中、今村師団長は上陸を決行します。
訓練の行き届いていたせいでしょう、上陸舟艇の一隻の転覆無く上陸は成功しました。

陸路南寧へ

上陸地から南寧までの自動車道が蒋介石軍により破壊されており、進軍は難儀を極めます。それでも第五師団は敵の反撃を撃ち倒しながら、十一月下旬南寧を占領します。
しかし、ここからが難戦の始まりでした。

蒋介石軍の大攻勢

十一月下旬に南寧を占領した第五師団は、街道沿い敵方向の前線に一連隊、南寧及びその近隣に一連隊を布陣させ、仏印(ベトナム)方面への軍需物資獲得に二連隊(一旅団)を派遣し、対敵拠点体制を敷きつつありました。
そこへ、十二月に入ると軍需物資補給路を断たれた蒋介石軍の戦略的大軍が攻勢を仕掛けてきます。
欽州湾からの物資補給路にも敵軍は襲い掛かり、たちまち第五師団は食糧不足に陥る危機を迎えます。

敵前線の連隊が窮地に陥り、南寧にある部隊を救援に送りました。なんとか前線の味方根拠地を維持することができているという状況が続きます。

敵軍は第五師団の十倍の兵力と見積もられてきます。しかし当時に日本軍はシナ軍に対して十倍の敵と戦い勝つ実力を持っていたと言います。

そうした状況下、今村師団長は、仏印(ベトナム)方面へ向けた二連隊(一旅団)が帰還次第、昭和十五年一月一日元日を期して自らその二連隊を率い前線で相対している両軍の背後に回り、敵軍を包囲殲滅すべく作戦を発令します。

発進前の、第二十一軍、参謀本部、シナ総軍参謀らの訪来

まさに、今村師団長が乾坤一擲の勝負に出ようとしたその時、第二十一軍、参謀本部、シナ総軍参謀らが訪来します。
その意図は、
・現在の蒋介石軍は第五師団の十倍以上の兵力を投入し、シナ事変そのものの勝負をかけるほどの攻勢に出て来ている、
・これほどの兵力を懸けて来ているのは、日本軍にとっては逆に敵軍を叩くチャンスであり、
・第五師団は、後方に下がり戦略持久し、援軍を待て、と
援軍は一師団プラス一旅団で現在の兵力の倍以上となってから、攻勢をかけ敵軍を殲滅する、
ということでした。

今村師団長の対応

ここで今村さんは、以上の上長の軍司令官の意図に対して苦吟します。
後方に下がり持久体制を敷くことは、前線において十倍の敵に囲まれている我が部隊が後退することであり、戦術上そんなことをすれば敵に殲滅される。前線は現体制を維持するならまだしも、後退することは実質上不可能である、

ここでの今村さんの対応は、
1)以上が上長である軍司令官の希望であるならば、従来の今村作戦を遂行する、
2)以上が命令であるならば、服するが持久体制は師団長に一任されたい、
ということでした。

ここに前線の師団長、司令官としての今村さんの冷静な戦略的判断力が如実に表れています。
後にこの時のことを、訪来した参謀の中に居て、今村さんのラバウル第八方面軍司令官在職時の参謀となった井本熊男大佐(第八方面軍参謀時)が回想していますが、『物静かに大演習における状況報告を思わせる説明をせられた』と書いています(丸別冊「回想の将軍・提督」平成三年三月十五日第十七号、287頁)。

第五師団の戦略持久

この後、軍司令部より第二十一軍よりの援軍の来るまで戦略持久すべきことという命令がきます。ただ、その持久方法については命令は有りませんでした。
結果的に2)を今村師団長は選択し、現体制のまま持久体制を維持することができました。
ただ、それでも食料不足、敵軍の増勢による我が軍の状況は辛辣を極めっます。師団司令部には食料を残さず前線へ優先的送達することなどの手を打ち、味方援軍の来るのを待ちます。

そして、一月十六日にはついに、味方援軍による食料や弾薬等の物資が南寧の第五師団司令部に届けられ、これら食糧弾薬を翌日には前線に送り届けることができ、持久体制を持続させることができました。
それは即ち、日本軍の勝利を呼び込む体制の確立を意味しました。

第五師団の攻勢時の大活躍により、大激戦を制す

以後順次、援軍である第十八師団と近衛混成旅団が南寧に到着し、一月二十八日を期して、総攻撃を開始します。

ここで、耐えに耐えた第五師団将兵のエネルギーが爆発します。
第十八師団、近衛混成旅団と一体となった第五師団の大攻勢、大活躍により蒋介石の大軍は蹴散らされるように敗退します。

昭和十四年十一月以来、翌年昭和十五年二月までの三か月の食料さえ大きく事欠く中での大難戦をしのぎ、大激戦を制した第五師団と師団長今村中将。

この戦いは、今村さんにとって、明示的に最初の大きな会戦での勝利でした。

4)昭和十五(1940)年四月 教育総監部本部長
第五師団長として南寧の大激戦を勝利し、嘉尚の言葉を賜る。

上記の『昭和天皇実録』中の記載については、『今村均回顧録』には記載されていません。
『昭和天皇実録』はこのときのことを、
「事変地より凱旋の前第五師団長今村均には御言葉を賜う』
と記しています。

このとき、今村さんは、教育総監部本部長に転任されていました。









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