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一技術者が仕事の意義について考えてきた一側面/私の定年講演等

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一技術者が仕事の意義についてと題して、私がサラリーマン生活40年近くを通して、日本人にとって近現代を通して切迫し続けている非常に重い課題に対して如何に対処してきたか、どう考えてき… もっと読む
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「私の定年講演 」俯瞰と目次

 「一技術者が仕事の意義について考えてきた一側面/私の定年講演 」俯瞰と目次を掲載します。 1.本編 1)「一技術者が仕事の意義について考えてきた一側面 (1)プロローグ」/定年講演|りょうさん|note 2)「一技術者が仕事の意義について考えてきた一側面 (2)前置きと結論」/定年講演|りょうさん|note 3)「一技術者が仕事の意義について考えてきた一側面 (3)近代との対面と私/定年講演|りょうさん|note 4)「一技術者が仕事の意義について考えてきた一側面 (4)

「私のような不器用な人間がそれなりに必死で仕事、家庭に取り組み、還暦時に達した一定の結論です。『「私の定年講演 」俯瞰と目次』

職業人である前に人間であり、日本人である 既に記事に挙げたものではありますが、自分でも時々読み返してみて改めてこの先の人生を考えるよすがにもしているものです。 (家庭、家族のことについては ↑ に書いています) 貧しいながらも私に旧帝大の理学部の修士課程まで学ばせてくれた、中学までしか学んでいない両親に思いをはして書いたものでもあります。 こてこての技術者=エンジニアではありますが、技術者である前に人間でありたいと思い、日本人であることの意味に深く思いを致して人生を送っ

「我欲と虚栄心が最優先の人と仕事するのはつらい、うまくネットワークを作り影響力を排除せよ」/サラリーマンの生き筋

定年再雇用で働いていると若い人の本音が直接伝わってくる 定年まではライン中間管理職として働いていました。今はラインを外れ、一員として具体的な技術を中心に仕事を続けていますが、そうして若い人と一緒に上下の関係でなく仕事をしていると本音がより良く伝わってくるということが有ります。 我欲と虚栄心の強い人と仕事するのはつらい 50代はライン部長職をしていましたので、幸い直接の上司に我欲と虚栄心が最優先の人がいなかったし、同僚や部下には常々ジョークやユーモアなども交えて我欲と虚栄

「一技術者が仕事の意義について考えてきた一側面 エピローグ12」/かつてたぎる湯壺の中で技術開発が沸騰していた  私の定年講演

今日、仕事中過去の会社の技術開発事績を見る機会があった。 私の会社は、自ら開発した日本の技術で世界に冠たる製品を世に出し、事業として成功をいくつも成し遂げた。 それは、主に前世紀から今世紀初めにかけてのことで、今もやれてないわけではないが、大きな世の中を変えるような製品を次から次にというわけにはいかなくなっている。 時代がいろんな意味で変わってきていることで、そういうことが起きにくくなっていることは間違いない。 ハード技術が飽和してきていること、技術の情報化、デジタル化に

「一技術者が仕事の意義について考えてきた一側面 エピローグ11 寂しさについて」/会社の古い友人が出身地の実家に帰っていきました。

昨日、会社の古い友人が、出身地の山口に帰っていきました。その友人は、同い年で昨年一緒に会社を定年となった府来るからの友人です。 お互い子供二人づつの家庭を持ち、子供たちが独り立ちしたこともあり、出身地の山口にUターンしたということです。 夫婦ともに山口の人であったということがUターンしやすかったのかもしれません。 これまでも一月に一遍くらいづつ、会って一時間ほどだべっていたのですが、これからはそうもいかなくなります。 それで昨日、その友人の住んでいたところへ車で訪問し、

「一技術者が仕事の意義について考えてきた一側面 エピローグ10」/技術開発におけるこだわりの強さとクリエイティビティ その2 定年講演

前編/技術開発におけるこだわりの強さとクリエイティビティ その1で述べましたように、40代初めまでは主に新規事業のための技術開発に取り組んできました。 40代の半ば以降、10年くらいにわたっては、既存事業部の先行技術開発 それまで私の会社では、本社研究開発の材料開発部門が既存事業部の先行技術開発を手掛けることはほとんどありませんでした。 というのは、それまでの事業部はある意味独立採算で技術開発も自前でやっていたという事情がありました。 そういう意味で、本社部門との協業とい

「一技術者が仕事の意義について考えてきた一側面 エピローグ9」/技術開発におけるこだわりの強さとクリエイティビティ その1 定年講演

私の会社生活における経歴については、以下の記事で述べました。 経歴リマインド 34年間、大手精密電機メーカーで川上の研究開発、技術開発を行い、煎じ詰めれば7つほどの技術開発を行い、2勝5敗だったとは他のところでも記しました。 大学、大学院で有機化学を専攻し、有機化学をベースに高分子科学、材料科学を志し、機能材料の技術開発を行ってきました。 有機化学出身の材料技術者の夢 理学部で有機化学を学び、基盤としたため、その経歴の上からも基礎的な技術基盤の上に革新的な機能材料を創

「一技術者が仕事の意義について考えてきた一側面 エピローグ8」/会社の歴史に通じることの大切さ 定年講演

本編(7)で私の勤める会社の文化や歴史についてお話ししました。 ここでどなたにも共通して重要なこととして申し上げたかったことは、自分の勤める会社の歴史に通じていることの大切さです。 普通に会社員となり、少なくともその会社で毎月の給料をいただくだけではなく、なにがしかの仕事をやり遂げようと考えている方、この会社で長く働いて有力な地位を得て会社に貢献しようと考えている方であれば、やはり勤めている会社の創業者やそこからの歴史に通じていることが非常に大切だと思うのです。 創業か

「一技術者が仕事の意義について考えてきた一側面 エピローグ7」/江藤淳 定年講演

本編(6)で日本人にとっての近代について分かり易く提示した人として、福澤諭吉と共に引用したのは江藤淳でした。 江藤淳は、昭和における近代の語り部としてこれほどの人はいないのではないか、と寡聞な私は思います。 彼は、海軍中将、少将を両祖父に持つ出自も関係して、戦後の価値観に対して相対的位置を確保せざるを得なかったがゆえに、その鋭利な頭脳でもって戦後価値感を超越し、本質的で日本にとって死活的に重要な近代を語ることができたと思う。 本編で示した江藤淳の著作としては、『考えるよろ

「一技術者が仕事の意義について考えてきた一側面 エピローグ6」/福澤諭吉 定年講演

日本人にとっての近代とは、ということでそれを明瞭な形で指し示してくれている人として、福澤諭吉と江藤淳をあげました。 これはなかなか良い人選だと自分でも自惚れて思っているのですが、福澤諭吉という人の書いた「文明諭ノ概略」にしても「学問ノススメ」にしても、繰り返しを厭わないで丁寧に非常に分かり易く書いてくれています。明治初期の文語体ですが、その点は非常に読みやすいです。 ですので、皆さんも福澤が思い、考えていたことを是非直接に味わっていただけると、幕末明治の人というものがどんな

「一技術者が仕事の意義について考えてきた一側面 エピローグ5」/宗教戦争とウェストファリア条約後の近代と旧約聖書 定年講演

近代とは、ウェストファリア条約後の信仰と世俗の分離だと講演で紹介しました。 また、宗教改革と不可分であり旧約聖書と分かちがたく結びついているとも言いました。 宗教戦争といわれる三十年戦争ですが、旧教のフランスが新教側に立って参戦したことで宗教戦争とは言えなくなったとウィキペディアには書いてあります。 しかし、神聖ローマ帝国やローマ教皇の権威主義に対して、国家の主権を重要視する国家主義の近代側が対したと見れば、フランスも国家主義であり、そのままある種の宗教戦争であったことは

「一技術者が仕事の意義について考えてきた一側面 エピローグ4」/法然、親鸞の仏教改革と新約の神 定年講演

本編「(4)近代とは、その1」で法然、親鸞の教えは、キリスト教の新約聖書と重なるのではないか、と述べました。 これはもちろん私自身の説ではなく、多くは今村均大将から教えられたことです。今村大将については、「智子、そして昭和」のエピローグで既にご紹介していますが、 浩瀚な回顧録を残されています。私は繰り返しこの回顧録を読み返しており、読んで非常に滋養のある回顧録ですが、その信仰に対する記述から多くを学びました。 大将は、戦時中、新約聖書と歎異抄(親鸞の弟子の唯円著)をポケ

「一技術者が仕事の意義について考えてきた一側面 エピローグ3」/行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、、、、定年講演

「行蔵は我に存す、毀誉は他人主張、我に与らず我に関せずと存じ候」 という言葉を、定年講演での2つ目の結論として引用しました。 この言葉も、会社で話した折には知ってる人がありませんでしたが、勝安芳海舟の言葉です。 この言葉も単独で雰囲気はご理解いただけるものと思いますが、いきさつも含め簡単に説明します。 これは、福澤諭吉が、勝海舟や榎本武揚らに対して、明治24年に執筆した「痩せ我慢の説」で徳川への忠義を忘れて明治政府で栄達するとは何事だと詰問したことに対しての、勝海舟の言葉

「一技術者が仕事の意義について考えてきた一側面 エピローグ2」/『雪埋梅花 不能埋香』2 定年講演

『雪埋梅花 不能埋香』の1でお話ししました、赤堀四郎先生は、明治33(1900)年の19世紀生まれですので、私(昭和36年1961年生まれ)は直接謦咳に触れるということはありませんでした。 1.線で繋がる関係性 しかし、線で繋がる関係性は明瞭に感じています。 赤堀先生を直接拝見したことは一度だけあります。それは昭和60(1985)年3月赤堀先生の弟子筋にあたる、大阪大学たんぱく質研究所所長泉美治教授の最終講義の席でした。 弟子筋の最終講義に来るというのは普通そうあることで