最終回として、フレイザー委員会の調査チーム主幹であったロバート・ベッチャーが1980年に同委員会の、主に統一教会と対峙した時期の回想録である『Gift of Deceit(欺瞞の贈物、未邦訳)』を用いて、フレイザー委員会の結末を記しておきたい。
◎フレイザー委員会の終わり
フレイザー委員会は、1978年8月15日の金炯旭(キム・ヒョンウク) KCIA元部長の聴聞会を最後に終了し、1978年10月31日付の報告書の発表をもって完全に終了することになる。
最大の失策は、文鮮明の聴聞会を開けなかったことにある。フレイザー委員会は当初、文に調査スタッフとの非公開でのインタビューに応じるよう要請したが、文は弁護士を通じてこれを断り、次に、文はフレイザーや他の議員との面談を逆提案するが、それは場所をニューヨークの、文の私邸であるベルヴェデーレに指定するなど、文が政治利用するためのものであったことは明らかだった。委員会は自主的に質問状へ応じるか、召喚状でワシントンに呼び出されるかの二択を迫るが、回答期限の二日前である5月13日、文は偽名を使いロンドンへ逃亡してしまう。そして、委員会終了後の11月までイギリスや韓国に留まり、米国に戻ることはなかった。
方や、フレイザー自身にも個人的事情で終わらざる得ない事情があった。彼は自身の選挙区であるミネソタ州で上院への鞍替え選挙が控えていたため、遠からず下院議員を失職することが決まっていたのだ。
ところが、フレイザーは9月12日、州の民主党予備選挙で3,500票弱(0.6%)の僅差で敗れてしまう。敗因として、彼が委員会を離れることが出来ず地元で選挙活動が満足に出来なかったこと、そもそもミネソタ州の有権者にとって東アジアのいち小国の陰謀に関心がなかったこと、最後に、ニール・サロネンが会長を務める自由リーダーシップ財団が、競争していた相手候補を支援するため統一教会信者のグループを送り込んでいたことが挙げられる。
韓国でこのニュースを聞いた文鮮明は歓喜したという。彼はフレイザーが神の意志に逆らったため、神の手によって敗れたと説教し、信者はそれを信じた。
コリアゲートも、有罪はわずか1名という、文字通り「大山鳴動して鼠一匹」という尻すぼみな結果に終わる。統一教会も、ひとりの逮捕者も出さずに終わる。
だが、決してフレイザー委員会の調査そのものが無駄であったわけではなかった。
米国との関係悪化を恐れた韓国政府は、1976年に統一教会の資金獲得ルートのひとつである「リトル・エンジェルス」の海外渡航を禁じたり、翌77年には統一協会のフロント企業である一和製薬の幹部を訴追するなど、統一教会との距離を置くようになった。
米国内では、ディプロマット・ナショナル銀行の株購入を巡って朴普熙が1977年に、彼が当時会長を務める「国際統一教会」が1979年にそれぞれ、証券取引委員会から告発を受けることになる(両方とも告発を受け入れ和解)。また、観光ビザで入国しているにもかかわらず滞在期間を超過し、且つ実質就労している海外からの統一教会信者を、移民帰化局の圧力により退去させることに(裁判闘争で5年かかったが)成功する。
なにより1981年に、文鮮明が1973年から1975年の3年分の所得税を虚偽申告した3件と、虚偽の陳述による司法妨害の罪の計4件で起訴されたことだ。フレイザー委員会が調べ上げた金の流れがここに帰結したと言えよう。
ベッチャーは84年5月、自宅アパートの屋上から転落するという怪死を遂げている。同年、文鮮明と、共謀した神山健は実刑判決を受け服役することとなる。
◎日本版フレイザー委員会は是か否か?
しばしば、「日本にも『フレイザー委員会』のように国会で統一教会を追求すべきだ」との論調が存在する。
実のところ、筆者は否定的な考えである。追求すべきではある。だが、フレイザー委員会は追求する権限が無さすぎた。過大評価されている感じは否めない。
フレイザー委員会はそもそも、韓国政府やKCIAによる、米国内への韓国の影響力を浸透・増強させる作戦を追求していた。だがそれゆえに、統一教会への追求が不十分であったことは否めない。すなわち、韓国政府やKCIAが関与していた(あるいはそうと思しき)根拠がないと統一教会を追求することが出来なかったことは、統一教会のフロント団体である反共組織・FLFの事務総長、ダン・フェファーマンの聴聞会の際に露呈した(こぼれ話(13)(14)参照)。
KCIAに「組織された」とされる統一教会が、実は隙あらば韓国政府に牙を剥きかねない団体であるとわかるにはそう時間はかからなかった。言うなれば、影響力拡大キャンペーンという鉱脈を掘っていたら、統一教会という巨大迷宮にぶち当たってしまった、そんな感じだろうか。
だが、立法府のいち小委員会に、この〈迷宮〉を直に裁くことは出来なかった。確かに文鮮明を牢屋送りにはしたが、それは委員会が消滅した後の話で、それも脱税という、本筋ではない罪でしか文鮮明を裁くことが出来なかった。
では、どうすべきだったのか?
答えとしては、「フレイザー委員会」とはまったく別の組織を立ち上げ、統一教会が世界各地で何をしていたのかを調べ上げる、というのが正解だろう。まさに、『フレイザー報告書』が結論付けている「省庁間タスクフォース」という、より大きく、より権限のある組織を立ち上げねばならないのだ。
だが、それを困難するのは、合衆国憲法修正第1条である信教の自由である。ベッチャーは悔しさをにじませてこう記す。
『フレイザー報告書』が世に出て間もなく半世紀。わたしたちは委員会が導き出した教訓をまだ活かしていない。
◎あとがきに代えて
「『フレイザー報告書』こぼれ話」は、もともと『報告書』をより深く理解しようと、委員会の聴聞会を私的に訳し始めたのが始まりだった。だが、KCFF設立時の重役ロバート・ローランドの境遇を知ったとき、状況は変わった。
そう、彼は統一協会に家族を奪われたアメリカ人の初期の被害者でもあったのだ。ローランドの宣誓供述から統一教会に関わる部分を抜き出してみる。
フレイザー委員会はローランドにとって、朴普熙に、そして統一協会に翻弄された13年間への区切りの場であった。
フレイザー委員長が聴聞会を終える際、何かコメントがあればと尋ね、ローランドは発言を求めた。
ローランドのことを知った以上、『フレイザー報告書』を読み込み、少しでも広く伝えようとするのが、彼の人生を無にしない最大のことであろう、そう思って「こぼれ話」を書いていた。果たして、彼の労苦に報いることが出来ただろうか。
最後に。
ベッチャーはコリアゲート事件は「的外れだった」という。確かに統一協会という思いもかけぬ迷宮を見つけてしまった者にとって、そういう感想は理解できる。とはいえど、報告書の7割はKCIAによる影響力強化作戦を記していることも、また事実である。いつか、この7割の〈ささやかな〉事件も読み解きたいと考えている。
『フレイザー報告書』こぼれ話〈完〉