『フレイザー報告書』こぼれ話(26)

 最終回として、フレイザー委員会の調査チーム主幹であったロバート・ベッチャーが1980年に同委員会の、主に統一教会と対峙した時期の回想録である『Gift of Deceit(欺瞞の贈物、未邦訳)』を用いて、フレイザー委員会の結末を記しておきたい。

◎フレイザー委員会の終わり

 フレイザー委員会は、1978年8月15日の金炯旭(キム・ヒョンウク) KCIA元部長の聴聞会を最後に終了し、1978年10月31日付の報告書の発表をもって完全に終了することになる。
 最大の失策は、文鮮明の聴聞会を開けなかったことにある。フレイザー委員会は当初、文に調査スタッフとの非公開でのインタビューに応じるよう要請したが、文は弁護士を通じてこれを断り、次に、文はフレイザーや他の議員との面談を逆提案するが、それは場所をニューヨークの、文の私邸であるベルヴェデーレに指定するなど、文が政治利用するためのものであったことは明らかだった。委員会は自主的に質問状へ応じるか、召喚状でワシントンに呼び出されるかの二択を迫るが、回答期限の二日前である5月13日、文は偽名を使いロンドンへ逃亡してしまう。そして、委員会終了後の11月までイギリスや韓国に留まり、米国に戻ることはなかった。
 方や、フレイザー自身にも個人的事情で終わらざる得ない事情があった。彼は自身の選挙区であるミネソタ州で上院への鞍替え選挙が控えていたため、遠からず下院議員を失職することが決まっていたのだ。
 ところが、フレイザーは9月12日、州の民主党予備選挙で3,500票弱(0.6%)の僅差で敗れてしまう。敗因として、彼が委員会を離れることが出来ず地元で選挙活動が満足に出来なかったこと、そもそもミネソタ州の有権者にとって東アジアのいち小国の陰謀に関心がなかったこと、最後に、ニール・サロネンが会長を務める自由リーダーシップ財団が、競争していた相手候補を支援するため統一教会信者のグループを送り込んでいたことが挙げられる。
 韓国でこのニュースを聞いた文鮮明は歓喜したという。彼はフレイザーが神の意志に逆らったため、神の手によって敗れたと説教し、信者はそれを信じた。

選挙の5日後、フレイザーの家は放火された。誰が犯人かは不明だ。

Robert.B.Boettcher『Gift of Deceit』p.324

 コリアゲートも、有罪はわずか1名という、文字通り「大山鳴動して鼠一匹」という尻すぼみな結果に終わる。統一教会も、ひとりの逮捕者も出さずに終わる。
 だが、決してフレイザー委員会の調査そのものが無駄であったわけではなかった。
 米国との関係悪化を恐れた韓国政府は、1976年に統一教会の資金獲得ルートのひとつである「リトル・エンジェルス」の海外渡航を禁じたり、翌77年には統一協会のフロント企業である一和製薬の幹部を訴追するなど、統一教会との距離を置くようになった。
 米国内では、ディプロマット・ナショナル銀行の株購入を巡って朴普熙が1977年に、彼が当時会長を務める「国際統一教会」が1979年にそれぞれ、証券取引委員会から告発を受けることになる(両方とも告発を受け入れ和解)。また、観光ビザで入国しているにもかかわらず滞在期間を超過し、且つ実質就労している海外からの統一教会信者を、移民帰化局の圧力により退去させることに(裁判闘争で5年かかったが)成功する。
 なにより1981年に、文鮮明が1973年から1975年の3年分の所得税を虚偽申告した3件と、虚偽の陳述による司法妨害の罪の計4件で起訴されたことだ。フレイザー委員会が調べ上げた金の流れがここに帰結したと言えよう。
 ベッチャーは84年5月、自宅アパートの屋上から転落するという怪死を遂げている。同年、文鮮明と、共謀した神山健は実刑判決を受け服役することとなる。

◎日本版フレイザー委員会は是か否か?

 しばしば、「日本にも『フレイザー委員会』のように国会で統一教会を追求すべきだ」との論調が存在する。
 実のところ、筆者は否定的な考えである。追求すべきではある。だが、フレイザー委員会は追求する権限が無さすぎた。過大評価されている感じは否めない。
 フレイザー委員会はそもそも、韓国政府やKCIAによる、米国内への韓国の影響力を浸透・増強させる作戦を追求していた。だがそれゆえに、統一教会への追求が不十分であったことは否めない。すなわち、韓国政府やKCIAが関与していた(あるいはそうと思しき)根拠がないと統一教会を追求することが出来なかったことは、統一教会のフロント団体である反共組織・FLFの事務総長、ダン・フェファーマンの聴聞会の際に露呈した(こぼれ話(13)(14)参照)。
 KCIAに「組織された」とされる統一教会が、実は隙あらば韓国政府に牙を剥きかねない団体であるとわかるにはそう時間はかからなかった。言うなれば、影響力拡大キャンペーンという鉱脈を掘っていたら、統一教会という巨大迷宮にぶち当たってしまった、そんな感じだろうか。
 だが、立法府のいち小委員会に、この〈迷宮〉を直に裁くことは出来なかった。確かに文鮮明を牢屋送りにはしたが、それは委員会が消滅した後の話で、それも脱税という、本筋ではない罪でしか文鮮明を裁くことが出来なかった。

 では、どうすべきだったのか?
 答えとしては、「フレイザー委員会」とはまったく別の組織を立ち上げ、統一教会が世界各地で何をしていたのかを調べ上げる、というのが正解だろう。まさに、『フレイザー報告書』が結論付けている「省庁間タスクフォース」という、より大きく、より権限のある組織を立ち上げねばならないのだ。

 だが、それを困難するのは、合衆国憲法修正第1条である信教の自由である。ベッチャーは悔しさをにじませてこう記す。

 文鮮明は、このスキャンダルの生き残りとして繁栄している。人民寺院の恐怖の後でも、司法長官は文による宗教の自由の悪用に騙され続けている。市民の自由を主張する人々や既存の教会指導者たちも、同様に文の思うつぼになっている。大手新聞社は、ウォーターゲート事件やコリアゲート事件で多くのことを暴露したような調査報道で攻勢に出ていない。
 文の脅威を法で裁くには何が必要だろうか。彼が築き上げている独裁と奴隷制度は、この国では存続できない。しかし、正義がなかなか動かないことが多すぎる。
(訳註:人民寺院は米国人ジム・ジョーンズが創設したキリスト系カルト教団。『フレイザー報告書』が纏められた約半月後の1978年11月18日、南米ガイアナにある同教団のコミューン、ジョーンズタウンで信者918名が集団自殺(実際は大量殺人と見られる)により死亡した。)

Robert.B.Boettcher『Gift of Deceit』p.349

 『フレイザー報告書』が世に出て間もなく半世紀。わたしたちは委員会が導き出した教訓をまだ活かしていない。 

◎あとがきに代えて

 「『フレイザー報告書』こぼれ話」は、もともと『報告書』をより深く理解しようと、委員会の聴聞会を私的に訳し始めたのが始まりだった。だが、KCFF設立時の重役ロバート・ローランドの境遇を知ったとき、状況は変わった。

 委員会に対する私の関心を周知させるために、25年連れ添った私の元妻は1963年以来文鮮明の信奉者であったと言えば十分でしょう。さらに、彼女は過去1年ほどの間に、22歳の娘を同じカルトに引き入れました。私の娘は現在ワシントンD.C.地区にて、フルタイムで無給の、広報関係の労働者として文鮮明に仕えています。私は下のふたりの子の親権を持っています。

「米国における韓国中央情報局の活動〜下院国際関係委員会 ー 国際機関に関する小委員会・事前聴聞会」(1976年6月22日)

 そう、彼は統一協会に家族を奪われたアメリカ人の初期の被害者でもあったのだ。ローランドの宣誓供述から統一教会に関わる部分を抜き出してみる。

 私が初めて文鮮明の運動と接触したのは1963年2月下旬、当時韓国大使館の武官補佐だった朴普熙中佐の紹介によるものでした。その最初の出会いから間もなく、朴中佐は2度私に連絡し、バージニア州アーリントンの私の家に夕食に招待してくれました。この会食で私たちは、文鮮明の信奉者であり、ここ連邦議会議事堂で過去数年間積極的に布教活動を行ってきた李俊九( イ・ジュング、別名:ジューン・リー)に初めて会いました。その最初の出会いから7月上旬まで、私たちは朴一家や李と最も親しい友人になりました。この間、私たちは何度も一緒にいましたが、彼らが文鮮明の運動と関係があるという気配はまったくありませんでした。
 朴の家で私たちが出席した行事には必ず他の招待客がいました。しかし、1963年7月初旬、私たちは夕食に招待され、出席したのは妻と私だけでした。朴の家にはジューン・リーが住んでいて、朴の妻と一緒に出席していました。夕食に続いて、たくさんの言葉と感情的な準備ののち、朴は文とのつながりと運動の救世主的性質を明らかにしました。
 もちろん、純粋な好奇心から多くの質問が続きました。そのうちのひとつは、この自称救世主の結婚歴に関するものでした。朴は、1960年に40歳で文が結婚したことをしぶしぶ認めました。私は、状況下では最も当然の質問として、文が結婚前に独身を貫いていたかどうかを尋ねました。
 朴は、最も説得力のある誠実さでうなずき、「はい、純潔の童貞です」と言いました。1967年後半になってようやく、私は文が1944年に結婚していたことを知りました。これは、その後に続く多くの嘘と欺瞞の始まりに過ぎませんでした。13年間の観察で、この「天国の欺瞞」という戦術は、上層部から下層部に至るまで、運動全体の根底にあることがわかりました。
 1963年後半になると、私は文鮮明の運動の政治的側面に気づき始め、それに不安を覚えました。私はしばしば、そのような運動が世界のさまざまな政治体制を操作して文鮮明を政治的救世主として受け入れさせることができるという朴中佐の素朴な考えを非難しました。そのような議論は、時にはかなり白熱したものになりました。
 そのような機会のひとつに、朴中佐は、文鮮明の支配下で朝鮮半島が最終的に統一されることは当然のことであると語りました。朝鮮半島全体が「新しいイスラエル」を代表しており、最初に文鮮明の支配下に置かれなければならない、と。
 私は彼の乱暴な主張に強く反対しましたが、怒りのあまり彼は「必要なら、完全武装した原理講論の兵士たちが38度線を越える姿を思い描ける」と口走りました。これに対して私は「これまであなたは私の妻に、あなたの目的を達成するために神は嘘と欺瞞を容認していると思わせたのに、今度は神は殺人を容認していると思わせようとしているのか」と言い返しました。(訳註:原理講論は統一協会の教義の解説書。)
 1964年初頭、朴中佐は韓国文化自由財団を設立する計画を語りました。彼は、韓国文化自由財団の目的は文の活動に対する影響力の拡大と資金集めであると述べました。私がそのような資金の移転の合法性を疑問視したとき、彼は何も答えず、ただ肩をすくめるだけでした。彼は1964年後半に韓国文化自由財団を設立し、アーレイ・バーク提督を初代代表に迎えました。当初のスポンサー一覧はワシントン政界の名士録のようでした。しかし、私はスポンサーの誰一人としてこの組織の本質を知っていた者はいなかったと確信しています。
 1964年の初め、朴中佐は私に、韓国で有名な韓国人ダンサーの指導の下で訓練を受けている韓国の子供たちのグループについても話してくれました。彼らが舞台に立つ前に、彼らの名前が決まりました。彼らはリトル・エンジェルスとして知られるようになるのです。これらの愛らしく才能のある子供たちは、文の名声を高めるために世界中で非常に効果的に利用されてきました。彼らの影響力は計り知れず、私はその多くが彼らの純粋な魅力によってカルト的な環境へと導かれたのではないかと考えています。
 私は1967年6月にKCIAによる韓国人移民への嫌がらせに気づき、国務省に抗議の手紙を書きましたが、返事はありませんでした。
 西ドイツ、フランス、米国から17人の韓国人(ほとんどが学生)が誘拐されました。彼らは他の反体制派とともに韓国で裁判にかけられ、1967年10月9日に2人を除いて全員が懲役刑を受け、2人は処刑されました(訳註:東ベルリン事件のこと)。
 それ以来、私はKCIAの活動、特に米国、日本、韓国で行われた活動に関する資料を集めてきました。私は長年にわたり、朴[正煕]政権の残忍な弾圧について文組織の多数のメンバーにインタビューしてきました。彼らは例外なく、あらゆる残忍で不当な行為を擁護しました。共産主義に対する彼らの恐怖は、すべてを飲み込んでいます。私の元妻は、共産主義者がロサンゼルスとサンフランシスコを乗っ取るのを阻止できるという理由で、朴政権を擁護しました。私の娘は、ソ連の秘密警察であるKGBが彼女を監視していると信じていると書いています。

「米国における韓国中央情報局の活動〜下院国際関係委員会 ー 国際機関に関する小委員会・事前聴聞会」(1976年6月22日)

 フレイザー委員会はローランドにとって、朴普熙に、そして統一協会に翻弄された13年間への区切りの場であった。
 フレイザー委員長が聴聞会を終える際、何かコメントがあればと尋ね、ローランドは発言を求めた。

 先ほども言いましたが、13年というのは長い時間です。それで去年ーー私は3年前に再婚したのですがーー妻に「もう疲れたけど、義務がある。他の親たちが立ち上がったので、この件は全部やめたい」と告げました。
 だからやめたいのですが、その前に誰かに伝えたいことがあります。それで14ページにわたる報告書をまとめ、そのコピーを昨年7月に送りました。私はFBIに行き、パワーズ捜査官にこう言いました。「あなたと話をしてこの報告書を渡す前に、私のことを調べてみてほしい。なぜなら、あなたは私が頭がおかしいと思うだろうから」
 それは当時もそうだったし、それ以前はもっとそうでしたが、今日では人々にとってより現実のものとなりつつあります。私はこの問題について朴中佐と長い議論を交わし、その危険性を知りました。文が、もうひとつのヴェトナム戦争へのアメリカの関与に及ぼす危険性を、私は知ったのです。
 そこで私はこの報告書をFBIに提出しました。彼は5日後に私に電話し、こう言いました。「これだけは言える。ワシントンに渡った。私が言えるのはこれだけだ」

「米国における韓国中央情報局の活動〜下院国際関係委員会 ー 国際機関に関する小委員会・事前聴聞会」(1976年6月22日)

 ローランドのことを知った以上、『フレイザー報告書』を読み込み、少しでも広く伝えようとするのが、彼の人生を無にしない最大のことであろう、そう思って「こぼれ話」を書いていた。果たして、彼の労苦に報いることが出来ただろうか。

 最後に。
 ベッチャーはコリアゲート事件は「的外れだった」という。確かに統一協会という思いもかけぬ迷宮を見つけてしまった者にとって、そういう感想は理解できる。とはいえど、報告書の7割はKCIAによる影響力強化作戦を記していることも、また事実である。いつか、この7割の〈ささやかな〉事件も読み解きたいと考えている。

『フレイザー報告書』こぼれ話〈完〉



 




 


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