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精読「ジェンダー・トラブル」#033 第1章-5 p53

※ #025 から読むことをおすすめします。途中から読んでもたぶんわけが分かりません。
※ 全体の目次はこちらです。

ウィティッグにとっては、ジェンダーが「哲学に属する」ということは、「哲学者がそれなしで論理を展開することが不可能だと考えるような自明の概念群に属しているということで、彼らにとってその概念群は、それがそもそもいかなる思考にも、いかなる社会秩序にも先行する存在であるがゆえに、自明の事項なのである」。

「ジェンダー・トラブル」p53

 この「ジェンダー」は文法的ジェンダーのことです。月は女性名詞、太陽は男性名詞、というやつです。
 フランス人は何を考えるにしろ文法的ジェンダーからは逃れられないので、男女二元論的なジェンダーが「自明の事項」のように見えてしまう、とウィティッグは考えます(視野狭窄的な考えですね。日本語や中国語にはジェンダーはないというのに)。

ウィティッグの見解は、語尾活用することによって、何も考えずに「存在」をジェンダーや「セクシュアリティ」に帰着させる、あの馴染み深いジェンダー・アイデンティティの言説によって傍証される。

「ジェンダー・トラブル」p53

 英語の be 動詞にあたるフランス語〈être〉は名詞だと「存在」を意味します。動詞だと〈〜である〉という意味で、主語によって活用します(ちなみに語尾だけでなく、まるごと活用します)。
 「ジェンダー・アイデンティティ」とは、〈私は男である〉〈私は女である〉という文章で表されます。性的マイノリティの場合は、〈私はゲイである〉〈私はレズビアンである〉のように、いわゆる「セクシュアリティ」が述語にきます。
 「セクシュアリティ」だけカッコつきである理由は、セクシュアリティもジェンダー(文化的構築物)であるから、カッコをつけることで〈いわゆる「セクシュアリティ」〉というニュアンスを持たせようとしているのでしょうか。真意はよく分かりません。

女で「ある」、異性愛者で「ある」と、何の問題意識もなく言うことは、ジェンダーについての実体の形而上学が存在していることの徴候だと言えよう。「男」の場合も「女」の場合も、この主張は、ジェンダー概念をアイデンティティ概念の下位に置き、ひとはジェンダーであり、彼や彼女のセックスや、精神的な自己認識や、精神的自己のさまざまな表出(そのもっとも顕著なものは性的欲望)によってジェンダーなのであるという結論にいたりがちだ。

「ジェンダー・トラブル」p53

 たとえば学校の道徳の時間や、LGBTのイベントなどで〈私は異性愛者です〉などと自己紹介する時、自分の中でもやもやとした引っ掛かりを全く抱かない人は、骨の髄まで「実体の形而上学」に染まっている証拠です。〈私は異性愛者です〉の〈私〉は、まぎれもない〈ひと〉だからです。
 そういう人はこのように考えがちです。すなわち、〈ひと〉である私には女性器があり、性自認は女で、男が好きーーだから私は〈女〉というジェンダーなのである、と。このように、〈私は〜である〉という定立が幾重にも積み重なって自己が構成されていて、それら属性を一手に引き受けるのが〈ひと〉と呼ばれる「存在」(être)です。

そのようなフェミニズム以前の文脈では、ジェンダーは(批判的にではなく)素朴にセックスと混同されるため、身体化された自己という統一原理としてはたらき、その統一性が保持されるのは、セックスとジェンダーと欲望に関して、並列して存在しているがまったく逆の内的首尾一貫性を備えていると考えられている「反対のセックス」の上位か、あるいはそれと対立して置かれるときである。

「ジェンダー・トラブル」p53-54

 〈男:オス=男らしい=ストレート〉〈女:メス=女らしい=ストレート〉の一対の三点セットを無批判に受け入れる「フェミニズム以前」の文脈では、セックス(オス/メス)とジェンダー(男らしい/女らしい)は一緒くたにされ、「身体化された自己」という「統一原理」の形を取ります。これはイデアのようなもので、現実の自己をイデアの自己に寄せていこうとする力が生じます。
 この「身体化された自己」が〈オス=男らしい〉〈メス=女らしい〉というように内的に「統一性を保持」できるようになる条件は二つあります。
 〈オス=男らしい〉にとって「反対のセックス」は〈メス=女らしい〉です。逆もまた然りです。「身体化された自己」の統一性が成り立つ二つの条件のうちの一つは、〈オス=男らしい〉が反対のセックスである〈メス=女らしい〉の上位に置かれることであり、逆もまた然りです。
 上位とはなんでしょう。たとえばムキムキな体に憧れるガリヒョロ男子がいたとします。このとき身体のイデア(憧れ)である「身体化された自己」のセックスは〈オス=男らしい〉であり、その反対のセックスは〈メス=女らしい〉です。ガリヒョロ男子は自分の体がムキムキとは正反対だという自己認識を持っているので、現時点での自分のセックスとしては〈メス=女らしい〉という身体イメージを持っていることになります。したがってこの場合、〈オス=男らしい〉が〈メス=女らしい〉の上位にいると言えます。このような上下関係において、下位の方の統一性は求められません(〈オス=女らしい〉でもOK)。統一性が求められるのは憧れである上位の方だけで、こちらは必ず〈オス=男らしい〉でなくてはなりません。
 「身体化された自己」の統一性が成り立つもう一つの条件は、〈オス=男らしい〉と〈メス=女らしい〉が対立概念であるときです。
 たとえば〈男なら泣くな〉をくどく言うと、泣く行為はメスだけに許された女らしい行為であるが、あなたはオスなので、メスとは反対に、涙をこらえるという男らしい行為を行わなくてはならない、となります。このとき〈オス=男らしい〉と〈メス=女らしい〉は対立の関係にあります。

(#034に続きます)


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