イミシブル・ディスコード。いべすと軽く感想

ネタバレ全開の内容ですのでご注意ください。メインはプロセカの今回のニーゴイベント『イミシブル・ディスコード』に感化されての文章ではありますが、それ以外の作品にもちらほら言及させていただいております。

本日、遅ばせながらAmazon primeで『ワンピース フィルムRED』を視聴いたしました。評判は耳に届いておりましたし、知人の中でも3回程観た者がいたりと随分盛況で気になっていた作品です。ありがたいことにprimeさんに追加されたことで、人との話の話題としても、評判のこともありチェック。
しかし、私の感想としましてはフラッシュバックが刺激される苦しいものとなりました。

最初に見出しの言葉を見てクリックされた方は、突然のワンピース語りに驚かれたやもしれませんね?理由は見終わったあとの感想にあります。

正直、毒親とのエピソードが触発され、作品全体として気持ち悪さを感じてしまう作品でありましたが、勿論、Adoさんの歌唱力や作画等とあらゆる場面に力が入っているのはわかりましたし、お話としての感想やレビューを書かせていたので、それらへの不快感を抱くわけではないです。
あくまで私個人としては、過去のトラウマを思い出すシーンが多々あり、視聴を終えてからは数字間、寝込んでしまいました。
理由は血が繋がっていようが、なかろうが、ウタとシャンクスの親子関係にあります。

軽く説明しますと、血の繋がった実子ではないにせよ、
作中でウタはシャンクスの子だと繰り返されます。しかしどんな事情があろうが、ウタは12年間、廃墟と化した無人島で廃墟ともつかない自分を含め2人しかいない無人島に残され「利用され捨て置かれた」と嘘をつかれ、幽閉とも島流しとも言える環境で、世間と隔離、情報やネット端末のような連絡手段すら一切ない人の文明から外れた環境で生きています。

最終的にはシャンクスが現れますが、周りからウタとの再開を妨害されそうになると「悪いが親子喧嘩の途中でね、邪魔しないでくれるか」

と、言い放ちます。個人的にはこの台詞はあまりに酷だと思います。その言葉で、瞬間揺らぐウタの表情があります。そりゃあ、どんなに時間が経とうが、自分を捨てたはずの人間が帰ってきてあまつさえそんな言葉を言い放つのですから。

それは12年間隔離されたウタにとって欲しかった言葉でしょう。ですがその一言で帳消しに出来るほど以上のことがウタの周りには生まれています。そりゃあ当たり前ですよね。

そうなってしまえば、その言葉はただ単に、非常に鋭いナイフで胸を刺したのと相違がありません。子にとって、親からもらう親からの言葉は何歳になっても、愛を向けらてしまえば帳消しにしてしまいそうになるほどの言葉で、大きいものです。
しかしそれが、どんなに本心であろうとも、本人のしあわせの為だと理由をつけようが、意思を聞かずに将来を決定し、置かれる環境を決めてしまうのは、虐待となにも変わらないのです。

さて、ようやくここでプロセカのイベント。
『イミシブル・ディスコード』のお話になりますが、シナリオの中で、まふゆ母は何度も「まふゆの幸せを考えて」「将来を思って」「それが本人のためだから」

と、思いつけて、まふゆ本人も「お母さんは自分のことを心配してくれているのだ」と何度も何度も言い聞かせながらも、徐々に暗闇に落ちていってしまいます。フィルムレッドを観たあとに、このシナリオを読んだから余計に感じるのかもしれませんが、親としての子どもの幸せを決めるエゴイスト的部分としては、環境の差はあれど、同等の思考をしていると私は思いました。

そして当事者とされた子ども本人自身も問題ではありますが、やるせないのは周りです。常に友人の苦悩に手を出せない、助け出せないと悔しい思いをし、時に涙を流すのはいつだって隣りにいる友達や仲間たちの姿です。子どもの問題に、実力権を持っているのはいつだって親です。

子どもたちでは太刀打ち出来る隙間などなくて、当たり前なのです。しかし、これは大人でも言えます。昨今の虐待や貧困、モンスターペアレンツ化等と問題化した環境の中では、大人ですら満足に力を発揮できないのです。学校現場で介入できる力など限られています。

話がすこし逸れますが、島本理生さんという作家さんの書籍の中に「七緒のために」というお話があります。
この作品には、様々な形で子どもを救おうとする大人の姿が描かれますが、その大人たちもあまりに無力です。

中でもスクール臨床医が、現在の仕事を志したきっかけとして
「少しでも逆らえる力を与えられるのなら、と思ったから」
というような(仔細は異なります)発言をする場面があります。

読んだ当時の私は、主人公たち少女側の目線で、
カウンセラーの言葉などわかったつもりでいただけ、でした。
でもいまならわかります、痛いほどに。当事者じゃない大人も無力なのです。

本来、子どもを救えるのは、
直接的に左右を選択する権利のある親や家族だけです。
外野の大人は、その中で肩書や法律、制度様々な局面で切り出そう救い出そうとしますが困難です。
それでも大人は、歳を重ねて、割り切るという行為や諦めを覚えてしまいました。

しかし、子どもたちにはそれがまだ、ないのです。
無責任な親や大人の選択というのは、当事者の子どもだけでは終わらずに周囲の子どもたちまでも影響を及ぼします。

子どもが力をないのは当たり前です。
それでも彼らはそれが当たり前だということすら知らずに、自身たちの無力さに、現実を知って、涙して、それを傷として引きずって生きていきます。
なぜ犠牲になり、当事者でもある、子どもたちが痛みを抱え、大人たちは逃れようとしてしまうのか、本来子どもを愛すのならばそれらの痛みから守るべきなのです。自分が傷つかずに身を守る大人を私は許せないし許したくないと言い様のない怒りを覚えました。 
個人に対してではありません、いいえ個人の問題であれば、まだ救いがあったでしょう。
私は、元当事者として、なにも出来なかった友人という役割もしても、今現在無力になった大人としても。もしこの経験したことで、すこしでも問題に一石を投じられるのなら、と書いてみることにしました。
しかし無力な私は、やはりこの問題への具体的な救済を思いつくことは出来ません。

ただ、それでも、おとなは少しだけ無関心はやめたり、意識だけでも子どもたちの在り方を決めつけない。
今現在、友人の隣で悔しいかたは、隣りにいるだけできっと力になれているということ。それだけで決して無力ではなく、とてもすごいことをしているのだと、非力ではないのだと思ってほしい。
そして今苦しい子は、どうかひとりで背負い込むことはしないで。どうにもできない、もうすべてが終わったと思っても。
力のない弱い色んな大人に助けを求めたりしてください。
大人はね、無力だけど、集団になるとすこし強くなって選択肢が広がる。鰯みたいな生き物なのです。

あと本当に、自分のことがいちばん好きか聞いて、幸せになってほしいか尋ねて、頷いたのなら思いっきり、
「うるせぇ、クソババア!バ~カ」
と言ったら、どう反応するだろうか考えてみてほしい。そのときに真っ先に心に浮かんだ想像に正直になってください。

ワンピースにイベストに、仮面ライダー。最近観た作品それぞれに、どれにも毒をかんじた元サバイバーの独り言でした。

そして島本理生さんは少数派の痛みや心に傷を持った人、抱えて生きる人を書くのがとても上手でリアルでも瑞々しく、読者に寄り添うようなお話を書かれる作家さんです。
『よだかの片想い』
生まれながらに顔に大きなアザがある子。
人と話すたび、第一印象はいつもあざ。
いつもあざに視線を感じる気がする、人は恥ずかしい部分を見られがちだと思いやすいですからね。
『七緒のために』
中学生の女の子二人友達特有の嫉妬や依存、自己顕示欲や自慢。14歳という思春期の女子の瑞々しさと醜さが繊細に表現されています。私も、つらいときたまにふと拠り所にしたり、安心するお守りのような言葉が島本さんの書籍からいただいています。ご興味あれば是非お手にお取りください。


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