2020.04.10、暢気な春の「あの人」と優しい味と信じること


 昨日はあとちょっとで眠れそうだったけれど眠れなくて、酒を飲んだ。でも眠れなくて、最悪の目覚めだった。寝起き即原稿をやったから最低限進んだ。胃もたれがすごいから用事ついでに胃腸薬を買いに出かけた。相変わらず春で、小鳥がそこらで楽し気に遊んでいた。暢気なものだと思いながら郵便局と薬局をはしごして、何となく違う道から帰ろうと思った。

 近所のパチンコ屋がついに営業自粛して潰れたみたいになっていた。いつも並んでいたおっさんたちやおばさんたちはみんなどこへ行っちゃったのだろう。能天気な晴天の河原には、犬や子供と散歩する幸福そうな人々だけがこまごまと存在していた。対岸に桜が咲いていた。僕は橋を渡って写真を撮った。逆光だったけれど、いくつも撮った。今年は桜が見られないかもしれないと思っていたけれど、出会えてよかった。

「桜を見るとあの人を思い出す」とか言ってみたいけれど、桜を一緒に見た「あの人」なんて僕にはいない。家族や友人は「あの人」って距離感じゃないし、先輩や後輩も違うと思う。特別な「あの人」がいる人は、どうかその人を大切にしてあげてほしい。そんな「あの人」にはそうそう出会えるものじゃないから。

 夜には昨日作ったネギ油でチャーハンを作った。優しい味になった。僕は優しさが大好きなので、ネギ油が優しい油でよかった。

 食後にぼんやりとした頭で原稿と向き合った。でも、思い浮かぶのはたくさんの人影のことだった。過ぎ去った影、それは思い出というには曖昧過ぎた。とりとめもない記憶。でも一つだけ確実なことを言うのなら、僕が好きになった人たちはみんな優しかった。こんな素敵な春の日に優しい人と出会いたいと思った。

 願望がそんなだから現実は今日もひとりぼっちでパソコンの前に一日中座っているだけなのだ。隣人たちは恋人や友人を呼んで騒いでいる。春に相応しい生きる喜びの声が聞こえてくる。楽しそうだね、楽しそうだね、と何度も唱えているとおかしくなりそうで、好きな音楽のことを考える。

 孤独な僕は歌う。石崎ひゅーいの歌を、風呂場で大きな声で。体の様々なところを使ってビブラートをかける。シャワーを止めるとボリュームを下げる。ずっと叫び続ける勇気は僕にはない。自分の歌が大好きだし、上手いと思っているけれど、それはそうと隣人に迷惑だろう。

 僕は優しい人だろうか。せめてネギ油くらい優しくなりたい。優しい人の周りには優しい人が寄ってくるという言葉を信じたい。たくさんのことに対して「信じたい」と思っているけれど、信じられるのはわずかなことだけで、ほとんどは願望で終わってしまう。信じられないということは、眠れないということの次くらいに悲しい。だから僕は、今夜こそ酒を飲まずに気持ちよく眠れるのだと信じたい。いや、信じる。優しい睡魔が訪れてくれることを、僕は信じる。

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