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6.25 きょうおもったこと

師の半藝

落語家であるわたしたちは、真打になると「師匠」と呼ばれます。協会からの郵便物も、様から師匠に宛名がかわります。協会には数名の「御師匠様」がいらっしゃいますが、やりすぎです。日本語としてもめちゃくちゃです。が、あの師匠と、この師匠です。って言えば、みなさん「ああ」と納得するはずです。

落語界以外のひとは、なにかと師匠と呼びたがります。二ツ目のころから、何度となく「師匠」と呼ばれ、「いや師匠じゃないんですよ」というやりとりを、ほぼすべての落語家が経験しているはずです。身近に「師匠」がいないんで、呼んでみたいんでしょうね、きっと。

しかし、本当に師匠になるのは、弟子をとった時です。歌司には弟子がわたししかいませんが、わたしの師匠です。歌司の師匠は先代圓歌です。最初の師匠三木助にも弟子はわたしだけです。そして、三木助の師匠は五代目柳家小さんです。

その五代目の小さん師匠のお弟子さんの、柳家三壽(やなぎやさんじゅ)師匠の訃報が入ったのは、協会から連絡の一日前、後輩からでした。

わたしも、柳家の末席におりましたので、新年会の折、三壽師匠にお目にかかったのと、これはもう歌司の弟子だっただろうな、前座のころ、浅草演芸ホールに木久蔵(現木久扇)師を訪ねていらしたときおめにかかったことがあります。逆に言えば、同じ協会にいながらにして、それぐらいしかお会いしておりません。

三壽師匠には去年二ツ目になったばかりの弟子がひとりいます。柳家寿伴です。じゅばんとよみます。

三壽師匠とはほぼ面識はないのですが、寿伴は前座のころから、よく落語会の手伝いをしてくれたり、稽古にきたりしています。よく稽古にくるということは、よく彼の噺を聴いているので、「今度これ演ったら?」とか、落語会の長い待ち時間なんかで、「よし、稽古しようか」なんて、また稽古をします。稽古をして、酒を飲んで、落語に対するはなしをちょっとだけして、また酒飲んで。そんな間柄です。

三壽師匠にとってどんな弟子だったのか?
三壽師匠からみたらどんな落語家だったのか?
ぜひ一度お伺いしたかったところですが、それは叶わないことです。

叶わないことではありますが、たったひとりの弟子、それも結果晩年に取った柳家寿伴が、三壽師匠を「師匠」にした人間であり、素直な成長ぶりに、なんの心配はしていなかっただろうということぐらい、想像に難くありません。むしろ、成長がたのしみだったことでしょう。

寿伴は大変大きなものを、背負ってしまったと思います。亡くなった師匠には、恩返しはできませんから。

わたしの好きな言葉に「弟子は師の半藝に及ばず」というのがあります。

歌司は圓歌の半藝に及ばず、わたしは歌司の半藝には及ばない。寿伴もそうです、三壽師匠は小さん師の半藝に及ばず、また寿伴は三壽師の…です。

その及ばない半分を、弟子は常に遠くに見据えています。歌司が存命するので、わたしの言葉に説得力はありませんが、見据えているその先に師匠がいる限り、その藝人は死ぬことはないとおもいます。圓歌がそうで、三木助がそうのように。

柳家三壽師匠、どうぞ、安らかに。



書くことは、落語を演るのと同じように好きです。 高座ではおなししないようなおはなしを、したいとおもいます。もし、よろしければ、よろしくお願いします。 2000円以上サポートいただいた方には、ささやかながら、手ぬぐいをお礼にお送りいたします。ご住所を教えていただければと思います。