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【落語】桂やまとのこと

桂やまと。やまと。やまとさん。やまとくん。やまと師匠。どれも、呼びずらい。というより、いままで呼んだことがなかったかもしれない。

ここ数年でやまとに一番会ったのは、小円歌師匠の立花家橘之助襲名だったかもしれない。

なので、前座名である才ころとまではいかないが、才紫が一番しっくりくる。

ちなみに『桂やまと』の名跡は、桂派の隠居名でもあったが、藝人、こと、落語家の名跡(なまえ)ぐらいいい加減なものはない。

きのうは、そのやまとに呼んでもらい、初めて梶原いろは亭に伺った。

無観客配信。無観客配信ながら、第一声の声の出し方、笑顔から、おっ、毎月やってるだけあって、慣れてやがる。やはり、トークのあとの高座も、無観客…というより、カメラのむこうの客にむけている。

片や、わたくし。

あがってから、えっと、これ、どれがカメラだろう?と探してしまった。多分これかな?と、あてずっぽうで喋っていたら、当たっていたようだ。

ふだんわたしたちは、客席の特定のお客さん目がけて落語を喋ることは、まず、ない。いや、この噺をこのひとに、っていうことはあっても、そのひとだけを見つめて話すなんてことは、ありえない。時に正面を切ることもあるが、マクラでも上下を切る。
ところが無観客配信は、極力カメラを見る。確実に「あなた」に話しかける。これは、昨年三回目ぐらいの収録から学んだ、というか、気がついた。

きのうは、演芸の席でもあるので、そんなことを考えなくとも、演りやすかったのだが、さらに自然にできたのは、あの『湯屋番』は、ほぼ楽屋のやまとに向けての高座だった。
それはなにも、「どうでぇい」とか、そんな意気込んだ意味ではなく、青春時代をともにすごした楽屋仲間への、「あれから随分たちましたが、これがいまのわたしの落語です。」という、短い手紙のようなものだ。

他方。毎月やっているやまとの落語は、そんな生温いものではないだろう。わたしへむけて…なんてなことは、全く感じなかったが、それでもわたしのしらない時間の桂やまとを、わたしなりに受け止めて聴いていた。それは、とても心地よい時間だった。

彼と最初に会ったのは、1999年9月のこと。
その年の7の月、ついに人類は滅亡しなかった。

22年。

その頃の楽屋の下のほうは、わたし、わたしの全くの同期に林家ひらりになって廃業めた、こん平師匠の弟子の林家はなふぶき、喬志郎のさん坊、東三楼のごん白、三語楼のバンビ、志ん陽の朝松で、志ん好のいち五、やまとの才ころ。で、その下からが、わたしの真打同期の10人。この平和主義ーわたしのことーの先輩におかげで、ケンカはしなくとも、よく飲んだ。

なかでも、末っ子で年嵩のやまとはしっかりものだった。

はなふぶきは、いかにも田舎から出てきて、なにもわからずに有名落語家の弟子になった18歳。わたしは苦労知らずの世間知らず。次代の名人の弟子であるその下のふたりは、ひとりは純粋で茫洋。かたほうは、自分がおもっているほどできていない。その下は、柳家の大看板の弟子で社会人あがり。朝松は昭和名人の最後の弟子という緊張感を感じさせない人柄で、古今亭の真ん中は、骨のあるやつ。で、この同期の末っ子、やまとの才ころはしっかりもの。

いつか、鶯谷の居酒屋で、いかに自分がダメ過ぎて、それを師匠は知っているので、しっかりしなきゃダメなんです。と、やまとは話してくれた。ああ、なるほどな、わかる。と、おもった。ずるさもないが、そつもない。でも、なにかに縛られている窮屈さがある。その窮屈さも、22年の月日が、しっかり自分の身体に馴染んでいる。その鶯谷の夜のはなしを聞いてから、才ころに窮屈さを感じなくなった。

高座でも、楽屋でも、いまのはなしとむかしのはなしが、綾をなすようにかわるがわる出てきては、一筋の糸になった。特筆すべきはなしはひとつもないが、どれもわたしたちにとっては特別なはなしだ、だけど、懐かしむのとも違う。

懐かしむのは、だれかがこの世の役目を終えて、彼岸の落語界からおよびがかかったときで十分。

できたら、それは、ずっと先のことであってほしい。

書くことは、落語を演るのと同じように好きです。 高座ではおなししないようなおはなしを、したいとおもいます。もし、よろしければ、よろしくお願いします。 2000円以上サポートいただいた方には、ささやかながら、手ぬぐいをお礼にお送りいたします。ご住所を教えていただければと思います。