6.16 きょうおもったこと
噺はだれかのものではない
きのうは長原に『街の手帖 リーディング』を取りに行って、大森で二件お届け、配送手配、そのあと稽古でした。
確か、二席いっぺんに稽古したんだっけな。
一席目は、2月の後半、まだ、学校の休校要請が出る前だったか。
あげの稽古。ようは、稽古した噺ができてるかどうか聴く稽古。見きわめ。その「あげ」を頼まれたのが、稽古してから随分早かった記憶があります。
噺なんてのは、どんどん稽古して、さっさと覚えて、どんどん演るしかないのです。
そして、噺の稽古はつけるよりも、この「あげ」が大切だなと、いつも思います。それは、わたしも、また、当然完璧ではないからです。
「あげ」を聴きながら、ああ、おれ、こう演ってるなー。って、思って、「ごめんごめん、そこんとこね…」って、直すこともしばしばです。
わたしは自分がそうなので、一言一句、わたしのように演ってもらいたいとはおもいません。演るのが正解だとも思いません。だけど、噺はリズムなので、「そのセリフはそのまま演ってくれないかな」ということも多いです。場当たり的に言葉を選んだのか、その言葉をあえて選んだのかぐらいのことはわかります。
なので、どうしてそうしたのかも考えます。
わたし自身の勉強のためってこともあります。
こうして、わたしが先輩、時に後輩から稽古をしてもらった噺が、わたしの手を離れて、誰かの一席となります。
すべての噺が、誰のものでもなく、落語という大きな流れの、まさに一雫でしかないのです。
書くことは、落語を演るのと同じように好きです。 高座ではおなししないようなおはなしを、したいとおもいます。もし、よろしければ、よろしくお願いします。 2000円以上サポートいただいた方には、ささやかながら、手ぬぐいをお礼にお送りいたします。ご住所を教えていただければと思います。