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【暮らし】物言わぬ生命

   ベランダ菜園でも、まして、家庭菜園でもない。柵菜園。去年までは唐辛子があって、なにかにつけて、摘んでいたものの、越冬できずに枯れてしまった。なので、ラオスフェスティバルで唐辛子の苗を買ったが、実をなすまではだいぶかかりそう。そのかわり、250円で買ってきた青紫蘇、大葉はわさわさとなる。わさわさと目についてきたところで、素麺に使ったり、刺身に添えたり、そんなことをしてるうちに、すっかり250円の元値もとをとってしまった。
   愛玩動物でも観葉植物でも、年少のころより「物言わぬ生命いのち」に接したほうがいい、というのは、確か色川武大の書籍で触れたのだと思う。なるほど、「物言わぬ生命」はそれでいて多弁だ。しかし、多弁ながら、それをわたしたちが気にかけてあげられなければ、たちまち何も聴こえなくなる。それは、喋らなくなるわけではない。
   なにかの拍子に、青紫蘇はよく萎びる。日避けの簾が風で上がっていたり、雨に油断して水がたりなかったり。すまぬすまぬと詫言を繰りながら多めにやると、水揚げがいいので、翌朝もしくは夕方にはぴんとしているが、物言わぬその聲に、心が痛む。そこへいくと、唐辛子は忍耐強い。それが、やがて、辛さとなる。
   わたしたちは物言わぬ存在ではない。水遣りをして、机代わりの松の一枚板の上にある、都知事選の投票券を手にして、そう思う。これは、物言うニンゲンが持つ、物言う一枚だ。
   ただ、受け止める側が聞く耳を持つかは、また、べつのはなし。

書くことは、落語を演るのと同じように好きです。 高座ではおなししないようなおはなしを、したいとおもいます。もし、よろしければ、よろしくお願いします。 2000円以上サポートいただいた方には、ささやかながら、手ぬぐいをお礼にお送りいたします。ご住所を教えていただければと思います。