【落語歳時記 7】鰍澤
ボクは扇橋師匠が好きだった。いや、いまでも好きだけど、その好きとは少し違う。好きだった、というのは、ボクが客席にいた頃のはなしだ。だから、楽屋で、または、田端の師匠宅でふれ、さらに好きになる入船亭扇橋師匠とは、ちょっと違う。ボクという一人称になったのは、まだ客席にいた、子どものころを思い出していたからだ。1996月2月16日、ボクはイイノホールの客席で扇橋師匠の『鰍澤』を聴いていた。
この噺も三遊亭圓朝師匠のお作で、三題噺とされているが、これとは別の説もある。題名の『鰍澤』は甲州の地名で、2010年の平成の大合併により、鰍沢町から富士川町に町名は変わってしまったが、山梨県南巨摩郡富士川町鰍沢と地名は残っている。わたしも、この噺を口演するにあたって、二度ほど鰍澤や身延山久遠寺、噺の肝となる毒消しの護符・小室山妙法寺を訪れたが、町名の通り富士川に面した山深いところで、富士川はやがて、東海道は岩渕宿へと流れ、駿河湾へとそそぎ込む。
後年落語家となるー破門にもなったがーサカモト青年、つまりわたしは、落語家になったのち、入船亭扇橋師匠にこの噺の稽古をつけていただく。扇橋師匠の形式は、彦六の正蔵師匠のではないだろうか?『火事息子』の稽古の時もそうだったが、扇橋師匠のはなしには、八代目正蔵のはなしがよく出てくる。
この『鰍澤』という噺は不思議な噺で、人情噺でも怪談噺でもない、吉原で客として会った花魁と、甲州の山中で出会うのは因縁めいているものの、さしずめ江戸のサスペンス、不安と緊張の物語である。
以前もどこかで「噺は絵である」と話したと思うが、まさにこの噺がそう。月の兎花魁の美しさ、大団円の雪景色、この絵を見せられなければ、この噺を演る意味はない。この絵の余韻を残すために、サゲは大きく変えた。
さて、はなしを96年2月16日に戻す。
その夜、東京都心には雪がちらついた。扇橋師匠の『鰍澤』で胸がいっぱいになったボクは、慣れないイイノビルから、地下鉄内幸町駅に直接降りられず、一旦ビルの外に出てしまい、地下鉄の入口を見失ってしまった。外は雪。なんてことはない東京の雪だが、地下鉄の入口を探すボクの背中には、「おーい旅のひとぉ」という月の兎花魁の声が迫っていた。
書くことは、落語を演るのと同じように好きです。 高座ではおなししないようなおはなしを、したいとおもいます。もし、よろしければ、よろしくお願いします。 2000円以上サポートいただいた方には、ささやかながら、手ぬぐいをお礼にお送りいたします。ご住所を教えていただければと思います。