わたしがアートをやる理由
がっつり息子の風邪をもらいました。
しわがれ声なわたしです。
昨日は子どもたちと寝落ち。
なんども起きました。
前回更新した記事の続きです、
それでは参りましょう。
右を向く絵
「運動会の絵を描こうってなってさー、みんな同じような絵が飾られるんだよ」
絵の書き方を教えてくれるらしい。
右上に金ピカの長方形の紙が貼られる絵。
「うまい絵」
表現を奪っていると思いました。
評価されることももちろんいいのだけど。
甲乙つけるのが美術なのかしら。と疑問が残ったわけです。
子どもにしか描けない線こそ大事だとおもうのです。
何も知らずに、ただ思い思いに紡がれる線と点がただただ
美しい。こどもらしく美しく楽しい。
それを幼少期から抑え込めて、何が自分らしい生き方、なのか。
おとなの役割
指導するのではなく寄り添い見守り、手助けをすること。
ただ先に生まれただけのことなのだから、偉そうぶってはいけない。
ある女性3人組の話を聞いた時に、美術ってなんて人生を豊かにしてくれるんだろうとはっとしたんですよ。デンマークのレッジョエミリア教育のいうものを初めて聞いた時に、ものすごく感動したのを覚えています。
モンテッソーリともシュタイナーともちょっと違う。
どれも素敵で美しい感性の教育だとおもう。どれもいい。
五感に寄り添って、自然の中から学びを見出していく。
雨の匂いや形、質感や色を想像して雨はどんなものなのかを言葉や絵で表していく。色やマテリアルで表現していく。そしてそれをみんなと共有していく。
共有することで、自分の心を伝えて相手の言葉を聴く。
言葉にすることで、自分の思っていることを相手に伝えて相手を理解し理解されていく。受け入れてくれると言う実感を得る。
それらに大人はただ寄り添うだけでよくて、口出しはしない。
規律は大事かもしれないけど縛らない。
根拠のない自信
表現したことを受け入れてもらえたという経験があれば、謎の根拠のない自信に繋がっていくんじゃなかと思っていて。
根拠のない自信こそ、自分らしく生きる土台なんじゃないでしょうか。
土台は自分。
そのじぶんらしさは、決して右向け右をやってては培われないものなんじゃないでしょうか。
右向け右教育で生きてきたわたし。
服作りで難しく考えていた「自分らしさ」は、ただただ大人に⚪︎をもらいたくて顔色窺っていたわたしでは見出せなかった。
否定されても、何をされてもやり尽くして好きを詰め込んでとことんやり切る。やり尽くして、やり切った自分を褒めてあげると、ひとにいわれるよりももっと自信につながる。
「わたしやれるじゃん」
ダメって言われると
大人はダメな理由がわかってる。
経験してるから。
こどもは経験が少ない、あるいは経験をしていないのでわからない。わからないのにダメって言われると試したくなっちゃう。ダメな理由がが知りたい。
ダメって言われない空間がないとさ、表現もなにもないわけで。
だからそんな自由な場所があってもいいんじゃないかと思うわけです。