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幸せそうな言葉がもたらす、どうしたらいいのかわからない話。今日はパスタ。

11月3日。今日のうちの昼ごはんはジェノベーゼパスタ。

ソースを作り置いており、ささっと作れるこのパスタは、仕事の合間のランチに最適なのである。

11月にしては、とっても暖かい今日。
ふたりでささっとパスタを作り、陽の光とそよ風の入る庭側の部屋で食べることにした。

この季節のうちの家はとても気持ちがいい。思わずまどろんでしまいそうなやわらかな光を見ると、引っ越しをしてきた頃のことを思い出す。わたしたちはこの場所に、心地のいい「秋」に引っ越しをしてきた。

この古い家で心地よく過ごせる季節は、ものすごく短い。すぐに暑くなったり、冷えたり、寒すぎたり、湿気に困ったりする。

丸2年を越えて随分とその生活に慣れてきたけれど、この季節の心地よさの幸福感といったら。短い期間だからこそ味わわないともったいない、しばらく家から出たくないとまで思ってしまう。


幸せそうな話がもたらす「どうしたらいいのかわからない」話

最近、自分の身に起こる"幸せそうな"出来事の話をするのを、躊躇していた。正式に言葉を扱う職業を名乗るようになってからだろうか、特にそう思うようになったのは。

わたしのこれまでの人生は、大変なこともあったし、必死で努力を重ねてきたと言えることも少しばかりはあるけれど、それでも生まれた環境やその後のめぐり合いに心底感謝するほど、「幸せ」に生きてきた。大変だったという感覚があまりない。もちろんまだ30年とちょっと。これから何が起こるかなんてこれっぽっちもわからないけれど。

そんな「幸せ」に生きてきた自分が知っている世界なんて、本当に本当にちっぽけだ。世界の多様さを知れば知るほど、わたしはそれを痛感している。

世の中にはもっといろいろな経験をして、辛く大変な思いをして生きているひとたちがいて、今も苦しんでいるひとがいる。
想像してもしきれないそのぼんやりとした世界について思うと、自分の感じる幸せや喜びを伝えること、言葉で伝え残していくことは、どこかの誰かを傷つけてはいないかと、急に心配になることがあるのだ。

そんなことを思っていたら、ちょうど今読んでいた本にこんな言葉が出てきた。気持ちを汲んでくれたのかと思った。

私たちが持っている、そうした幸せのイメージは、ときとして、いろいろなかたちで、それが得られない人びとへの暴力になる。

ー岸 政彦『断片的な社会学』

だから私は、ほんとうにどうしたらいいかわからない。

ー岸 政彦『断片的な社会学』

と筆者は述べていた。

人の話を聞き、書き続ける人である限り、きっとこの悩みは消えない。わたしだってどうしたらいいかわからない。
わからないなりに、真摯に人と言葉に向かって、想像して、できる限り自分の言葉を客観的に見返しながら、勇気を出して紡いでいくしかないのだ。

たくさんの人の話を聞き、言葉にすることが仕事である岸さんがそう書くということは、きっとそうなのだと思う。

誰かに食卓の話を聞くということは、そういうことだと思っている。

このタイミングで読めてよかったと心から思うような本だった。この先何度も読み返すだろう。
そして、ついに『東京の生活史』を注文してしまったよ、ついに。

このくらいの生活を、わたしはとても気に入っている

ジェノベーゼパスタは、去年よしこさん(またまた登場)に教えてもらってからずっとはまっていて、今年はこのパスタをたくさん食べるために、バジルを大量に植えた。夏を越えて、秋も本番。まだ何株かは元気に育ち、新しい芽をつけてくれている。

本来のジェノバソースは、木の実も入っていたりするのだろうけれど、うちは極めてシンプルに。大量のバジルの葉とたっぷりのにんにくをミキサー?にかけてオリーブオイル、塩、チーズを混ぜてソースにする。

数年前までは、ジェノバソースなんてつくる余裕もないほど忙しない日々を送っていた。それでいうと、いまはソースを作る余裕があるのだろう。それと引き換えに金銭的なことや安定など(笑)失っているものももちろんある。

でもいまは、このソースを作れるくらいの生活を、わたしはとても気に入っている。

お金貯めてイタリア旅行行きたいとか、そういうささやかな欲望や願いは持っているけれども。

余談。ジェノベーゼと、ジェノバソースと、そのあたりの違いってなんなんでしょう、と思いながら最後まで書いてしまった。調べたらいいのだけど、なんせこのシリーズ、勢いよく書いている。後で調べる。ジェノベーゼパスタと書いているけれど、もしこれがジェノベーゼパスタではなかったら、今日食べたものは名称は不明となり、この文章上では存在がなくなってしまう、とよくわからないことを書いていたら11月4日になってしまった。


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