見出し画像

138億年の時間の中で☆第40話☆「君といると楽しい」             

消防署の二階から灘区民ホールに移転したのとタイミングをおなじにして、よるあーちに通うようになった長男は当初はスムースに入室できませんでした。   戸惑う長男に学生さんが丁寧に声かけしくれて次第に慣れていったたようです。コロナ前は学習支援やこども食堂に参加する親子と学生さんでとても賑わっていましたが、長男と1対1で学生さんをマッチングしてくれたことが、彼の安心につながったのだと思います。次第にじゃんけん電車やダンスタイムを楽しめるようになり、学校以外で初めて安定して通える場所になったのがよるあーちです。コロナ禍では、学生さんが減ってしまい、どうやって広い空間にたっぷりの時間を過ごせばいいのかわからず戸惑っている姿は、あらためて学生さんの存在の大きさに気がついたキッカケになりました。
あーちで障害者と共に過ごしている学生さんは、「あそんであげる」「キッカケを与えてあげる」という意識がほとんど無く、障害者と共に過ごすことで自分自身も楽しみながら成長している、という様子がよくわかります。対等な「ともだち」に近い感じ。障害ある「ともだち」と過ごすうちに、学生さん自身も変化しているようです。私自身も大きく変わったので、なんとなくわかります。
あーちには、怒りを抑えられず大声をあげている人、ぴょんぴょんと走り回っている人、熱心に勉強をしている人、ずっとおしゃべりしている人がいて、色々な人とどのように関わるかを模索している学生さんの姿は、私に刺激を与えてくれます。誰かと時間を、空間を、活動を共にするということは、一方的に与えたり、与えられたりするのではなくて、思惑や意図から外れたところで予想外の影響をお互いに及ぼすものなのだなあ・・。その影響は大抵、お互いにとって幸せなことになっていると、長男に付き添っているだけの私は思ったのでした。そして思い出すのは自分の学生時代。なんとなくずっとしんどかったな。その正体が何なのか分からず、探ろうともせず、話すこともせず。もし、あの時の私があーちにいたらどんなふうに変わっていたのだろう?とタラレバワールドを妄想することも多々あり。多分、きっと、今よりもうちょっとリラックスしている時間が長いかもしれないと思うのです。
障害者と健常者が分けられた世界は、きっと双方にとって大きな損失になっているのではないかと最近は考えるようになりました。お互いに狭い視野しか持ちえず、世界は色んな人が関わって成り立っているのに、その背景を探るヒントを失っているようなもの。特に、「できる」の世界で、もっと、もっと、に苦しむ健常者の学生さんがいるとしたら、その人にとっては障害者と共に過ごす方がきっと生きやすいし、楽しいはずです。どちらにとってもwin‐winと気づいた先に、健常者、障害者の境界線が曖昧になっていることが起こったならば、さらに生きやすくなります。
さて、18歳になった長男は、同じ年の大学生の「ともだち」ができるのでしょうか?「ともだち」は長男と出会う事で、何か生きるヒントを見つける事ができるでしょうか?新たな出会いに期待をしています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?