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上京一週間目、やたらケツの綺麗なばあちゃんになりたい。

23日に上京し、気付けば一週間が過ぎていた。あたしの「状況を咀嚼し順応する」という能力がなんとなく発揮されているせいか、特に可もなく不可もない生活をしている。

今あたしは、家賃が安くて立地が良くて家電が揃ってる代わりに狭くて壁が薄くてなんか臭い社員寮の中で、諦めのつくくらい愛想の悪い同居人たちと共に暮らしている。シェアハウスのような形なので風呂キッチントイレ等ほとんどが共用で、ともなると同じ階に住む人なんかは顔を合わせて挨拶くらいはするはずなのだが、今のところあたしからはあってもあちらから挨拶をされた事は未だにない。
東京の人って初対面の人に挨拶ってしないんだと悲しい気付きを得てからは、あたしは早々に同居人たちと仲良くなることを諦めた。多分そんなことは無いとは分かっていても、春から新生活を迎え、期待と不安を背負った新卒に対する反応があれじゃあしょうがないな、と思っていた。

東京に住民票を移して一週間。特に感じたのはこういう人の空気感のギャップだ。
地元よりもちろん人はめちゃくちゃ多い。人口という分母が大きい分、変な人やいやな人も多いのだ。この前池袋を両手に大きな荷物を持って歩いていたら、普通のサラリーマンのおっちゃんにデカめにぶつかられ、更にまるであたしが見えてないかのように2.3歩押されてびっくりした。避けもしないのか!見えてる!?と怯えるより先にびっくりが勝ったくらいあの時は驚いた。ぶつかっても無視だし、誰かが何かを落としていても誰も拾おうとしないし。人ってこんなに冷たいものなのか?と寂しい気持ちになっていた。
そんな人たちが吐き出しているせいか、空気も重だるく感じる。東京と京都。響きは似ているのに吸って吐いて循環する空気がまるで違う。
CO₂のフォントが明らかに違うのだ。知らないフォントなので読み込むのに時間がかかる。新宿や池袋を歩いているとそんな気分になるのだ。
部屋に帰ったら帰ったで相変わらずなんか臭い部屋だし、無香空間置いても臭いし、ファブリーズぶっかけてもなんか臭いし、エアコンも冷蔵庫も臭くないのになんか部屋だけが臭いし。東京にはあたしが吸って処理できるフォントのCO₂は無いんだと思う。悲しい。したくもないアップデートはいつだ。

そんなこんなで日々アップデートされゆく街、東京に住んでいるが、やはり初期データのような面も残っている。
家から歩いて3分も無いところに小さな銭湯がある。古めかしい屋根に木札の鍵の下駄箱、服を入れる大きなカゴ、脱衣所には縁側があって、小さな池には赤くて小さな金魚がちろちろ泳いでいた。あたしは服を脱いで、大小色んなポンプを抱えて浴場に入った。
そこにはばあちゃん、ばあちゃん、ばあちゃん、またばあちゃん……と、見事にばあちゃんしかいなかった。17時頃という時間帯もあったのか、本当にばあちゃんしかおらず、肩のあたりが華奢でお腹はぽっこりとしたばあちゃん達に囲まれて、これまた肩幅のないふっくらしたお腹を持ったあたしは久しぶりの湯船に浸かっていた。
そしてどうやらこのばあちゃん達にも仲良しさん同士がいるらしい。ばあちゃん同士で何やらお話をしたり、熱いお湯に声を漏らし合ったりしていた。
銭湯コミュニティを目の当たりにしている時に、先程まで体を洗っていたであろう1人のばあちゃんが目に止まった。見た目は他のばあちゃんと変わらないので最初は気づかなかった。だがこちらに近づいてきて湯船にそのばあちゃんが浸かる時だった。
びっくりしたのはそのお尻だった。
ケツだ。
ケツがやたらめったら綺麗だった。
ほんとにふんわりとしたまあるくてつるりとハリのある綺麗なケツだったのだ。
想像してほしい。一般的なばあちゃんのケツ。他の部位と同様しわしわにしぼんでいて、熟れすぎた茄子のような感じ。

熟れすぎた茄子で画像検索したらほんとに出てきた。

その身体に、局所的に綺麗な紫の茄子の実の表面がくっついているのだ。
あまりにもイレギュラーなケツをしたばあちゃんは、同じように熟れすぎた茄子の集団に紛れていった。
あのばあちゃんはよく思い出してみると、浴場に向かっていく足取りもとても上品で綺麗だった。背筋も他のばあちゃんよりスッとしていたような気がした。バレエかなにかやってらしたのだろうか。実は育ちがとても良かったばあちゃんなのではないだろうか。でもやっぱり肩までお湯に浸かっているばあちゃんは、周りと同じくやっぱり熟れた茄子だった。湯上がりのばあちゃん達は、身体とは相反したプリプリの笑顔で銭湯を後にしていった。

話を頭に戻すと、あの空間はとても良いフォントが漂っていたように感じた。Wordの初期に入っているメイリオや創英角ポップ体みたいな、そういうやわらかで馴染みやすく、どこかポップな雰囲気を感じた。東京の冷たく目まぐるしい空気とはどこか逸脱していた空間だった。

が、しかし、そんな事でなにか新しい人生の見方が出来たとか、地元の人の温かみに触れて涙をこらえるなどといった情緒は持ち合わせていない。
あいにく日々は劇的では無い。
あたしの日々も。あなたの日々も。

きっと、ポップなフォント漂うあの銭湯も、キャッチがウヨウヨいるサンシャイン通りも、静かな住宅街にたった1本だけ咲く木蓮も、空も目線も狭いのに情報の海は一番広い新宿駅も、全部が東京なのだろう。人が多面的であるのと同じように、東京もまた、人のように多面的なのだ。

あたし達は、劇的では無い日々を、劇的では無い東京で、清濁それなりに合わせて飲み込んで暮らしていくのだろう。そうやって飲み込んでいく時に、喉につっかえた小さく小さく輝く砂金のような日々を、人は表現し芸術にするのだろう。
あたしはこれからどんな砂金を飲み込んでいけるんだろう。飲み込めていけたらいいな。そしてまた、それらを集めて表現出来る事がしたいな。
久しぶりに表現のことも考えながら、上京して一週間、自分のまるいケツを撫でながら、冷凍食品の茄子のミートスパゲティをしまった。

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