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アンダンテスピアナート

私にとって天国を連想する曲が2つある。
そのうちの1つがアンダンテスピアナートだ。

マウリツィオ・ポリーニが亡くなった。

人の死を1つ2つと数えるのは違うと思いつつ、小澤征爾の訃報から間もない著名なピアニストの死。
幼い頃から、遠方に住む自分の祖父の顔以上に、テレビで、CDのジャケットで見てきた音楽家の死。

私はポリーニの熱狂的な信者というわけではない。
むしろ楽譜が苦手という性格の私にとって、楽譜を見られないならせめてこれを耳で真似してくれと言わんばかりに聞かされてきた、教材のような存在。

訃報を知った翌日、真っ先に探したのは、きっと多くの人と同じくショパンのエチュードだった。

Op.10は流す気になれなかった。
どえらい勢いのハ長調の和声を、どでかい音で、訃報の後に聴きたいタイプではない。
こういう時には、くぐもった印象のOp.25の方が似つかわしい。

ふとして、アンダンテスピアナートの録音がないか探した。

アンダンテスピアナートと華麗なる大ポロネーズ。
個人的な感覚としては、華麗なる大ポロネーズの方がフィーチャーされることが多い気がしている。
実際、ショパンも華麗なる大ポロネーズを先に作って、その前菜としてアンダンテスピアナートを付け加えているわけだし、そういうパワーバランスではあるのだろう。

ただ、私にとってはこのアンダンテスピアナートこそ、後に続く華麗なる大ポロネーズのイメージを大きく左右している、気がする。

華麗なる大ポロネーズはそれ単体なら、文字通りに聞こえよう。
しかしその前に、アンダンテスピアナートが加わることで、もの寂しさを帯びる、気がする。

アンダンテスピアナートから天国を思い描くようになったのはいつからだっただろう。
少なくともこの曲を自分で演奏するようになってからではあったと思う。

いつの間にかこんな空想が出来上がっていた。

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靄がかかる世界で少女は目が覚める。
あたり一面雲の上のように晴れていて、でも何もない。
少女は眠いのかなぜか、体が思うように動かない、でも決して不安も不快もなく、心地がいい。
どこからともなく子守歌が聞こえてくる。
名前もわからない子守歌、だが少女はずっと昔から聞いていたような気がしている。
子守歌を口ずさむと、少しして少女は気づいた、そうだ私は天国にいるんだと。
にっこりとほほ笑んだ少女はいつの間にか老婆の姿をしている。
ゆっくりと目を閉じる彼女の上からタンポポの綿毛のような、雪のような白いものがしんしんと降り積もる。
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だからして、華麗なる大ポロネーズを死者が繰り広げる舞踏会のように感じてしまう。
現世での記憶などもう残っていない人達の大団円。

一方でこの印象はとある映画によるところも大きいかもしれない、とも思う。
戦場のピアニスト。
エンドロールでこの曲が流れる中、幾度か画面が暗転し、映画のその後が明かされる。
映画の演出としては非常に有体だとは思うけれど、この華々しい音楽の中で主人公や主人公を助けたドイツ兵がいつ亡くなったかが文字で説明されるのだ。
このエンドロールが、私の中に強く焼き付いているがゆえに、この曲と死とを結び付けて考えてしまうのではないか、という気もする。

結局、ポリーニのアンダンテスピアナートは見つからず、私は少し残念な気持ちがした。

その後、ベートーヴェンのピアノソナタの31番を繰り返し聴き、白昼のスターバックスで泣き続けた。

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